宋名臣言行録 / 前集巻九・孫甫
司馬温公書公唐史記後云孫公昔著此書甚自重惜常别緘其藁於笥必盥手啟之謂家人曰萬一有水火刀兵之急他貨財盡棄之此笥不可失也毎公私少間則増損改易未嘗去手其在江東為轉運使出行部亦以自随過亭傳休止輙取修之㑹宣州有急變乗馹遽徃不暇挈以俱既行其後金陵大火延及轉運廨舍弟子察親負其笥避於沼中島上公在宣州聞之亟還入問曰唐書在乎察對曰在乃悦餘無所問自壯年至於白首乃成亦未以示人文潞公執政嘗就公借之公不與但録姚宋論以與之况他人固不得見也
新字:司馬温公書公唐史記後云孫公昔著此書甚自重惜常別緘其藁於笥必盥手啟之謂家人曰万一有水火刀兵之急他貨財尽棄之此笥不可失也毎公私少間則増損改易未嘗去手其在江東為転運使出行部亦以自随過亭伝休止輙取修之会宣州有急変乗馹遽往不暇挈以倶既行其後金陵大火延及転運廨舎弟子察親負其笥避於沼中島上公在宣州聞之亟還入問曰唐書在乎察対曰在乃悦余無所問自壮年至於白首乃成亦未以示人文潞公執政嘗就公借之公不与但録姚宋論以与之況他人固不得見也
書き下し
司馬温公、公の唐史記の後に書して云う、孫公、昔、此の書を著す。甚だ自ら重惜す。常に别に其の藁を笥に緘し、必ず手を盥いて之を啟く。家人に謂いて曰く、萬一、水火・刀兵の急有らば、他の貨財は盡く之を棄てよ。此の笥は失う可からずと。公私少しく間あれば則ち増損・改易し、未だ嘗て手を去らず。其の江東に在りて轉運使と爲るや、行部に出づるにも亦た以て自ら随う。亭傳を過ぎ休止すれば、輙ち取りて之を修む。㑹々宣州に急變有り。馹に乗じて遽かに徃く。挈えて以て俱にするに暇あらず。既に行く。其の後、金陵大いに火あり。延きて轉運の廨舍に及ぶ。弟子察、親ら其の笥を負いて沼中の島上に避く。公、宣州に在りて之を聞く。亟かに還り入りて問いて曰く、唐書在りやと。察對えて曰く、在りと。乃ち悦ぶ。餘は問う所無し。壯年より白首に至りて乃ち成る。亦た未だ以て人に示さず。文潞公、執政たり。嘗て公に就きて之を借る。公、與えず。但だ姚・宋の論を録して以て之に與う。况んや他人は固より見るを得ざるなり。
現代語訳
司馬光が公の『唐史記』の後に書いて言った。「孫公は昔この書を著した。たいそう自分でそれを大切にした。いつも別に草稿を箱に封じて、必ず手を洗ってから開けた。家の者に言った。『万一、水や火や刀や兵の急があれば、他の財産はすべて捨てよ。この箱だけは失ってはならない』。公私に少しでも暇があれば、書き足し削り改めて、一度も手から離さなかった。江東で転運使であったときは、管内を巡るのにもそれを持って歩いた。宿場を通って休むと、そのつど取り出して手を入れた。ちょうど宣州に急変があった。駅馬に乗って急いで行った。持って一緒に行く暇がなかった。そのまま出発した。その後、金陵で大火があった。燃え広がって転運使の役所にまで及んだ。弟子の孫察が自分でその箱を背負って、沼の中の島に避難した。公は宣州にいてそれを聞いた。急いで帰って入ってきて尋ねた。『唐書はあるか』。孫察は『あります』と答えた。それで喜んだ。他は何も尋ねなかった。壮年から白髪になるまでかかって、ようやく完成した。それでも人に見せなかった。文彦博が執政であった。かつて公のところへ行ってそれを借りようとした。公は渡さなかった。ただ姚崇と宋璟の論だけを写して渡した。まして他の人は、もとより見ることができなかった」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『宋名臣言行録』前集巻九・孫甫公は博學强記なり。尤も唐事を言うに善し。能く其の君臣の行事の本末を詳らかにして、以て當時の治亂を推見す。毎に人の爲に説くこと、其の身、其の間に□るが如し。而して聽く者曉然として目に見るが如し。故に學者以爲えらく、終嵗、史を讀むは、一日、公の論を聞くに如かずと。著す所の唐史記七十五巻、論議閎贍なり。書、未だ成るに及ばずして公巳に卒す。詔して其の書を取りて秘府に藏せしむ。
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『宋名臣言行録』前集巻九・孫甫蘓内翰、李薦に答うる書に云う、孫之翰の唐論を錄示せらる。僕、之翰を識らず。今、此の書を見て凛然として其の人と爲りを得たり。褚遂良の劉洎を譛らざる、太子瑛の廢は張説に由る、張廵の敗は房琯に由る、李光弼は史思明を圖るに當たらず、宣宗に小善有るも人君の大略無しと論ずるに至るは、皆な舊史の及ばざる所なりと。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修唐書を修むるに、最後に局を置きて專ら紀志を修むるのみ。列傳は則ち尚書宋祁の修むる所なり。朝廷、一書の兩手より出でて體の一なる能わざるを以て、遂に公に詔して列傳を刊詳し、刪修して一體と爲さしむ。公命を受くと雖も、退きて歎じて曰く、宋公は我に於いて前輩たり。且つ人の見る所は多く同じからず。豈に悉く己の意の如くす可けんやと。是に於いて一も易うる所無し。書成りて奏御するに及び、吏白す、舊制、書を修むるは只だ書局中の官の髙き者一人の姓名を列ねて某等奉敕撰と云うと。而して公の官髙ければ當に公を書すべし。公曰く、宋公は列傳に功を用うること深く、日を爲すこと久し。豈に其の名を掩いて其の功を奪う可けんやと。是に於いて紀志には公の姓名を書し、列傳には宋の姓名を書す。此の例は皆前に未だ有らず。公より始まると爲す。宋公聞きて喜びて曰く、古より文人相い讓らずして好んで相い陵掩す。此の事は前に未だ聞かざる所なりと。
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『宋名臣言行録』後集巻十四・劉恕英宗雅より稽古を好む。詔して光をして歷代君臣の事を編次せしむ。仍お光に謂いて曰く、卿自ら館閣の英才を擇びて共に之を修めよ、と。光對えて曰く、館閣の文學の士は誠に多し。史學に專精するに至りては、臣の得て知る所の者は、惟だ和川令劉恕一人のみ、と。上曰く、善し、と。退きて即ち奏して之を召し、與に共に書を修む。史事の紛錯して治め難き者は、則ち以て之に委ぬ。光成るを蒙るのみ。
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『宋名臣言行録』後集巻七・司馬光特に公は新法罷まざるを以て義として起つ可からず。元豐の官制成る。帝曰く、官制將に行われんとす。新舊の人を取りて兩つながら用いんと欲すと。又た曰く、御史大夫は光に非ざれば不可なりと。蔡確進みて曰く、國是方に定まる。願わくは少しく之を俟てと。王珪も亦た□其の説。元豐七年秋に至り、資治通鑑成りて御に進む。時に公を資政殿學士に拜し、帶を賜うこと二府の品數の如き者なり。修書官も亦た秩を遷る。范祖禹及び公の子康を召して館職と爲す。時に帝初め疾を感じ、既に安んじて宰輔に語りて曰く、來春儲を建てん。司馬光・呂公著を以て師保と爲さんと。神宗の公を知ること深きこと此くの如し。
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『宋名臣言行録』後集巻十三・范祖禹熙寧三年、温公歷代君臣の事迹を修む。公を辟して同に編修せしむ。又た劉攽・劉恕を辟す。温公洛に歸るに及び、詔して其の属を以て自ら隨わしむるを聽す。而して二公は官所に在り。獨り公のみ洛に在り。温公專ら書局の事を以て之に属す。故に公此の書に於いて力を致すこと尤も多し。