宋名臣言行録 / 前集巻九・王質
范仲淹以言事貶饒州方治黨人甚急公獨扶病率子弟餞於東門留連數日大臣有以讓公曰長者亦爲此乎何苦自䧟朋黨公曰范公天下賢者若得爲黨人公之賜質厚矣聞者爲公縮頸
新字:范仲淹以言事貶饒州方治党人甚急公独扶病率子弟餞於東門留連数日大臣有以譲公曰長者亦為此乎何苦自陥朋党公曰范公天下賢者若得為党人公之賜質厚矣聞者為公縮頸
書き下し
范仲淹、事を言うを以て饒州に貶せらる。方に黨人を治むること甚だ急なり。公獨り病を扶けて子弟を率いて東門に餞す。留連すること數日。大臣に、以て公を讓むる有り。曰く、長者も亦た此を爲すか。何ぞ苦しみて自ら朋黨に䧟るやと。公曰く、范公は天下の賢者なり。若し黨人と爲るを得ば、公の賜、質、厚しと。聞く者、公の爲に頸を縮む。
現代語訳
范仲淹が意見を述べたことで饒州に流された。ちょうど党派の者を取り締まることがたいそう急であった。公は一人だけ病を押して子弟を率いて東門で見送りの宴を張った。留まって別れを惜しむこと数日。大臣に、公を責める者があった。「年長のあなたまでこんなことをなさるのか。どうして苦しんで自分から党派に陥るのか」。公は言った。「范公は天下の賢者だ。もし党派の者にしてもらえるなら、あなたの賜り物として、私には厚すぎるくらいだ」。それを聞いた者は、公のために首をすくめた。
解説
党派狩りの最中に、一人だけ見送りの宴を張った条です。責められての返しが良い。范公は天下の賢者だ。もし党派の者にしてもらえるなら、あなたの賜り物として、私には厚すぎるくらいだ。「党派」というレッテルを、贈り物として受け取っています。聞いた者は、公のために首をすくめた。危ないことを言っている、と周りのほうが縮み上がった。前に読んだ尹洙の「一緒に流されたい」と同じ形です。
この章句が説くこと
公独り病を扶けて子弟を率いて東門に餞す何ぞ苦しみて自ら朋党に陥るや何ぞ苦しみて自ら朋党に䧟るや范公は天下の賢者なり若し党人と為るを得ば公の賜質厚し党派覚悟
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