宋名臣言行録 / 前集巻九・孔道輔
元祐中上元駕幸凝祥池宴從臣教坊伶人以先聖爲戯刑部侍郎孔宗翰(道輔之子)奏唐文宗時嘗有爲此戯者詔斥去之今豈宜尚容有此詔付伶官于理或曰此細事何足言者孔曰非爾所知天子春秋鼎盛方且尊徳樂道而賤工乃爾褻慢縱而不治豈不累聖徳乎聞者歎服
新字:元祐中上元駕幸凝祥池宴従臣教坊伶人以先聖為戯刑部侍郎孔宗翰(道輔之子)奏唐文宗時嘗有為此戯者詔斥去之今豈宜尚容有此詔付伶官于理或曰此細事何足言者孔曰非爾所知天子春秋鼎盛方且尊徳楽道而賤工乃爾褻慢縦而不治豈不累聖徳乎聞者嘆服
書き下し
元祐中、上元、駕、凝祥池に幸して從臣に宴す。教坊の伶人、先聖を以て戯を爲す。刑部侍郎孔宗翰(道輔の子)、奏す、唐の文宗の時、嘗て此の戯を爲す者有り。詔して之を斥け去らしむ。今、豈に宜しく尚お此れ有るを容る可けんや。詔して伶官を理に付すと。或るひと曰く、此れ細事なり。何ぞ言うに足らんやと。孔曰く、爾の知る所に非ず。天子、春秋鼎盛にして、方に且つ徳を尊び道を樂しむ。而して賤工、乃ち爾く褻慢す。縱ちて治めずんば、豈に聖徳を累わさざらんやと。聞く者歎服す。
現代語訳
元祐年間、上元の日、御車が凝祥池に行幸して従う臣たちに宴を張った。教坊の芸人が孔子を演じて戯れた。刑部侍郎の孔宗翰(孔道輔の子)が奏上した。「唐の文宗の時、かつてこの戯れをした者がありました。詔が下ってそれを斥け去らせました。いま、どうしてなおこれがあるのを許してよいでしょうか。どうか詔を下して芸人を役所に引き渡してください」。ある者が言った。「これは細かいことだ。言うに足りようか」。孔宗翰は言った。「あなたの知るところではない。天子はいまお年が盛んで、まさに徳を尊び道を楽しんでおられる。それなのに賤しい芸人がこうもなれなれしく侮る。放っておいて処置しなければ、聖なる徳を累わせないことがあろうか」。聞いた者は感服した。
解説
父と同じ場面が、後の代に息子のところで起きた条です。前の条では敵国の宴席、こちらは自国の行幸先でした。「細かいことだ」と言われての返しが要です。**天子はいまお年が盛んで、まさに徳を尊び道を楽しんでおられる。それなのに賤しい芸人がこうもなれなれしく侮る。放っておいて処置しなければ、聖なる徳を累わせないことがあろうか。**小さいから見逃す、という判断が、どこに響くかを言っています。
この章句が説くこと
教坊の伶人先聖を以て戯を為す此れ細事なり何ぞ言うに足らんや縦ちて治めずんば豈に聖徳を累わさざらんや些事放置影響
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