宋名臣言行録 / 前集巻九・王禹偁
年七八巳能文畢文簡爲郡從事始知之問其家以磨麺爲生因令作磨詩元之不思以對但存心裏正無愁眼下遲若人輕着力便是轉身時文簡大竒之留於子弟中講學一日太守席上出詩句鸚鵡能言難似鳯坐客未有對文簡冩之屏間元之書其下蜘蛛雖巧不如蚕文簡歎息曰經綸之才也遂加以衣冠呼爲小友至文簡入相元之巳掌書命矣
新字:年七八巳能文畢文簡為郡従事始知之問其家以磨麺為生因令作磨詩元之不思以対但存心裏正無愁眼下遅若人軽着力便是転身時文簡大奇之留於子弟中講学一日太守席上出詩句鸚鵡能言難似鳯坐客未有対文簡冩之屏間元之書其下蜘蛛雖巧不如蚕文簡嘆息曰経綸之才也遂加以衣冠呼為小友至文簡入相元之巳掌書命矣
書き下し
年七八にして巳に能く文す。畢文簡、郡の從事と爲り、始めて之を知る。其の家に問うに、麺を磨きて生を爲すと。因りて磨の詩を作らしむ。元之、思わずして以て對う。但だ心裏に存すれば正に愁い無く、眼下に遲し。若し人、輕く力を着くれば、便ち是れ轉身の時と。文簡大いに之を竒とす。子弟の中に留めて講學せしむ。一日、太守の席上、詩句を出だす。鸚鵡は能く言えども鳯に似難しと。坐客、未だ對する有らず。文簡、之を屏間に冩す。元之、其の下に書す。蜘蛛は巧なりと雖も蚕に如かずと。文簡歎息して曰く、經綸の才なりと。遂に加うるに衣冠を以てし、呼びて小友と爲す。文簡の相に入るに至り、元之巳に書命を掌れり。
現代語訳
七、八歳ですでに文章が書けた。畢士安が郡の従事となって、はじめてこの子を知った。家のことを尋ねると、麦を挽いて暮らしを立てているという。そこで石臼の詩を作らせた。王禹偁は考えもせずに答えた。「ただ心のうちに収まっていれば、まさに憂いはなく、目の下ではゆっくり回る。もし人が軽く力を加えれば、それが身を転じるときだ」。畢士安はひどく感嘆した。子弟のあいだに留めて学ばせた。ある日、太守の席で詩句が出された。「鸚鵡はよく喋るが、鳳に似ることは難しい」。座の客で対句を付ける者がなかった。畢士安はそれを屏風に書いた。王禹偁はその下に書いた。「蜘蛛は巧みではあるが、蚕には及ばない」。畢士安は嘆じて言った。「経綸の才だ」。そこで衣冠を与えて、「小友」と呼んだ。畢士安が宰相となったころには、王禹偁はもう詔勅を掌っていた。
解説
この章句が説くこと
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『宋名臣言行録』前集巻九・王禹偁禹偁、能く文を屬す。太宗、方に文士を奬㧞す。其の名を聞き、召して右拾遺・直史館を拜し、緋を賜う。故事、緋を賜う者は銀帶を給す。上、特に命じて文犀帶を以て之に賜う。公、端拱箴を獻じて以て戒と爲す。尋いで知制誥。上嘗て之を稱して曰く、禹偁の文章は當今天下獨歩なりと。真宗即位す。召して翰林學士と爲し、太宗實錄を修めしむ。執政、公の其の間を輕重するを疑う。職を落とされて黄州を知る。州境に二虎の鬬いて其の一を食らう有り。冬に雷あり、羣雞、夜に鳴く。公、疏を上りて洪範を引きて戒を陳べ、且つ自ら劾す。上乃ち命じて移して蘄州を知らしむ。尋いで召し還す。朝せんとするに公巳に卒す。
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『宋名臣言行録』前集巻四・冦凖王元之の子嘉祐、館職と為る。平時愚騃の若し。獨り公のみ之を知り、喜びて之と語る。公、開封府を知る。一旦、嘉祐に問いて曰く、外人、劣丈を謂うこと云何と。嘉祐曰く、外人皆な云う、丈人旦夕に相に入らんと。公曰く、吾が子の意に于いては何如と。嘉祐曰く、愚を以て之を觀るに、丈人は未だ相と為らざるを善しと為すに若かず。相たれば則ち譽望損せん。公曰く、何の故ぞと。曰く、古よりの賢相の能く功業を建て生民を澤す所以の者は、其の君臣相い得ること魚の水有るが如し。故に言聴かれ計從われて功名俱に美なり。今、丈人は天下の重望を負う。相たれば則ち中外に太平の責め有らん。丈人の明主に于ける、能く魚の水有るが若くならんや。此れ嘉祐の譽望の損ぜんことを恐るる所以なりと。公喜びて起ちて其の手を執りて曰く、元之は文章天下に冠たりと雖も、深識遠慮に至りては、殆ど吾が子に勝る能わずと。
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『宋名臣言行録』前集巻九・王禹偁公、翰林に在り。真宗、初めて即位す。暇日、召して與に文を論ず。公奏して曰く、夫れ賢を進め不肖を黜け、諫争の路を闢き、彰らかに誥命と爲して之を四海に施し、利を萬世に延ぶるは、王者の文なり。彫纎の言に至りては、豈に慮りを軫ますに足らんや。輕重を□□の儒に較べんや。願わくは其の小を棄てて其の大を務めよ。誠に宗社の福なりと。上、顧みて曰く、卿は朕を愛すること深き者なりと。
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『宋名臣言行録』前集巻六・晏殊公の父は本と撫州の手力節級なり。公、幼くして能く文す。楊大年、以て聞す。時に年十二。真宗、面のあたり詩賦を試む。其の宿搆なるかを疑う。明日、再び試むるに、文采愈々美なり。上大いに之を竒とす。即ち祕書省正字に除し、龍圖閣に於て書を讀ましむ。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修公生まれて四歳にして孤なり。母韓國太夫人親しく公に教えて書を讀ましむ。家貧しく、荻を以て地に畫きて書を學ぶに至る。公敏悟人に過ぎ、覽る所輒ち能く誦を成す。成人するに比び、將に進士に舉げられんとし、一時の偶儷の文を爲す。已に絶えて倫輩に出づ。翰林學士胥公、時に漢陽に在り、見て之を奇として曰く、子は必ず世に名有らんと。之を門下に館せしむ。公之に從いて京師に至り、兩たび國子監に試み、一たび禮部に試む。皆第一なり。遂に甲科に中り、西京留守推官に補せらる。始めて尹師魯に從いて遊び、古文を爲し當世の事を議論し、迭いに相い師友たり。梅聖俞と遊びて歌詩を爲し、相い唱和す。遂に文章を以て名は天下に冠たり。留守王文康、其の賢を知り、朝に還りて之を薦む。
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『宋名臣言行録』前集巻一・呂䝉正公既に政を致して洛に居る。真宗汾隂を祀り、洛を過ぐ。文穆尚お能く迎謁す。回鑾に至り已に病む。帝為に其の宅に幸し、問いて曰く、卿が諸子、孰か用う可きと。公對えて曰く、臣が諸子は皆な豚犬にして用うるに足らず。姪の夷簡有り、潁州の推官に任ず。宰相の才なりと。帝其の語を記し、遂に大用に至る。是より先、富韓公の父貧しきこと甚だし。公の門下に客たり。一日公に白して曰く、某が兒子十許歳、書院に入りて廷評大祝に事えしめんと欲すと。公之を許す。其の子は韓公なり。公之を見て驚きて曰く、此の兒他日の名位、吾と相い似んと。亟かに諸子と同學せしめ、供給甚だ厚し。公兩たび相に入り、司徒を以て致仕す。後、韓公も亦た兩たび相に入り、司徒を以て致仕す。文穆の人を知るの術此くの如し。