宋名臣言行録 / 前集巻八・王徳用
公狀貌魁偉而面色正黒雖匹夫下卒閭巷小兒外至逺夷君長皆知其名識與不識稱之曰黒王相公北虜常呼其名以驚小兒其爲戎狄畏服如此蘓紳孔道輔等言其宅枕乾岡貌類藝祖公奏曰宅枕乾岡朝廷所賜貌類藝祖父母所生云
新字:公状貌魁偉而面色正黒雖匹夫下卒閭巷小児外至遠夷君長皆知其名識与不識称之曰黒王相公北虜常呼其名以驚小児其為戎狄畏服如此蘓紳孔道輔等言其宅枕乾岡貌類芸祖公奏曰宅枕乾岡朝廷所賜貌類芸祖父母所生云
書き下し
公の狀貌は魁偉にして、面色正に黒し。匹夫下卒・閭巷の小兒、外は逺夷の君長に至るまで、皆な其の名を知る。識ると識らざると、之を稱して黒王相公と曰う。北虜、常に其の名を呼びて以て小兒を驚かす。其の戎狄の畏服する所と爲ること此くの如し。蘓紳・孔道輔等、其の宅の乾岡に枕し、貌の藝祖に類するを言う。公、奏して曰く、宅の乾岡に枕するは朝廷の賜う所なり。貌の藝祖に類するは父母の生む所なりと云う。
現代語訳
公の姿かたちは堂々として大きく、顔の色はまったく黒かった。庶民も下級の兵も、路地の子どもも、外は遠い異民族の君長に至るまで、みなその名を知っていた。知っている者も知らない者も、称して「黒王相公」と言った。北の敵はいつもその名を呼んで子どもを怖がらせた。異民族に畏れ服されることが、このとおりであった。蘇紳・孔道輔らが、その屋敷が乾の岡を枕にしていること、顔かたちが太祖に似ていることを言い立てた。公は奏上して言った。「屋敷が乾の岡を枕にしているのは、朝廷が賜ったものです。顔かたちが太祖に似ているのは、父母が生んだものです」。
解説
屋敷の向きと顔かたちで、謀反を疑われた条です。狄青が汾河の生まれと刺青と姓で疑われたのと、同じ形の言いがかりです。答えが二行しかありません。屋敷が乾の岡を枕にしているのは、朝廷が賜ったものです。顔かたちが太祖に似ているのは、父母が生んだものです。どちらも自分が選んだものではない、と。弁解も反論もせず、出どころを示しただけでした。
この章句が説くこと
識ると識らざると之を称して黒王相公と曰う其の宅の乾岡に枕し貌の芸祖に類するを言う宅の乾岡に枕するは朝廷の賜う所なり貌の芸祖に類するは父母の生む所なり讒言言葉応答
関連する章句
-
『太上感応篇』悪行・新しきを得て故きを忘れ、口是にして心非なり妻妾の語を用ゐて、父母の訓に違ふ。新しきを得て故きを忘れ、口は是にして心は非なり。財を貪冒して、其の上を欺罔す。悪語を造作して、平人を讒毀す。
-
『宋名臣言行録』前集巻八・狄青公、嘗て樞宻使と爲る。時に予、諫官と爲る。人の相い語る有り、童謡に云う、漢は羌人に似、羌は漢に似たり。頭を改め面を換うるも摠て一般。只だ汾河の川子の畔に在りと。青は汾河の人なるを以て、面に刺字有り。滅し去るを肯んぜず。又た姓は狄にして漢人爲り。此の歌は是れ人の作る所ならん。爲に疑わざるなりと。予に之を言わんことを欲す。予、之に應じて曰く、此れ唐の太宗の李君羡を殺す事なり。上、安んぞ忍びて爲さん。適だ以て君臣の疑心を啟くのみと。
-
『宋名臣言行録』前集巻六・宋庠公、初め郊と名づけ、伯庠と字す。其の弟祁と、布衣の時より名、天下を動かす。號して二宋と為す。其の知制誥為るに、仁宗、驟かに奬眷を加え、便ち大用せんと欲す。其の先進を忌む者有り、之を譛りて謂う、其の姓は國號に符し、名は郊天に應ずと。又た曰く、郊は交なり。交は替代の名なり。宋交ぶ、其の言、不祥なりと。仁宗、遽かに命じて之を改めしむ。公怏怏として已むを獲ず。乃ち名を庠と改め、公序と字す。公、後に更々二府を踐むこと二十餘年。司空を以て致仕す。福夀を兼ね享けて終わる。而して譛る者、竟に用いられずして以て卒す。以て小人の戒と為す可きなり。
-
『家道訓』巻之二・総論中一家の主人たる人は、讒を信ずべからず。凡讒言は、小過を大過に言ひなし、小悪を大悪に言ひなし、似たるを実に言ひなし、無きを有るに言ひなし、或は其の人のきらふ所を知りていからしむる、皆讒言のたくみなる言なり。きく人明らかに察すべし、まよふべからず。才力ある人といへども、讒者には迷ひやすし。かなしむべし。只、智者は惑はず。
-
史記 楚世家無忌又日夜太子建を王に讒して曰く、「無忌秦の女を入れしより、太子怨み、亦た王に望むこと無き能はず。王少しく自ら備へよ。且つ太子城父に居り、兵を擅にし、外に諸侯と交はり、且に入らんと欲す」と。平王其の傅伍奢を召して之を責む。伍奢無忌の讒を知り、乃ち曰く、「王奈何ぞ小臣を以て骨肉を疎んずる」と。無忌曰く、「今制せずんば、後に悔いん」と。是に於て王遂に伍奢を囚ふ。乃ち司馬奮揚をして太子建を召さしめ、之を誅せんと欲す。太子之を聞き、亡げて宋に奔る。無忌曰く、「伍奢に二子有り。殺さざる者は楚国の患と為らん。盍ぞ其の父を免すを以て之を召さざる。必ず至らん」と。是に於て王使ひをして奢に謂はしむ、「能く二子を致さば則ち生きん。能はずんば将に死せん」と。奢曰く、「尚は至らん。胥は至らず」と。王曰く、「何ぞや」と。奢曰く、「尚の人と為りは、廉にして、節に死し、慈孝にして仁なり。召されて父を免すと聞かば、必ず至りて、其の死を顧みず。胥の人と為りは、智にして謀を好み、勇にして功を矜る。来たらば必ず死するを知る。必ず来たらず。然れども楚国の憂ひと為る者は必ず此の子ならん」と。是に於て王人をして之を召さしめて曰く、「来たれ。吾爾の父を免さん」と。伍尚伍胥に謂ひて曰く、「父免さるると聞きて奔ること莫きは、不孝なり。父戮せられて報ゆること莫きは、無謀なり。能を度りて事に任ずるは、知なり。子其れ行け。我其れ帰りて死せん」と。伍尚遂に帰る。伍胥弓を彎き矢を属け、出でて使者を見て曰く、「父罪有り。何を以て其の子を召すことを為す」と。将に射んとす。使者還り走る。遂に出でて呉に奔る。伍奢之を聞きて曰く、「胥亡ぐ。楚国危ふきかな」と。楚人遂に伍奢及び尚を殺す。十年、楚の太子建の母居巣に在り、呉に開く。呉公子光をして楚を伐たしめ、遂に陳・蔡を敗り、太子建の母を取りて去る。楚恐れ、郢に城く。初め、呉の辺邑卑梁と楚の辺邑鐘離の小童と桑を争ふ。両家交々怒りて相攻め、卑梁の人を滅ぼす。卑梁の大夫怒り、邑の兵を発して鐘離を攻む。楚王之を聞きて怒り、国の兵を発して卑梁を滅ぼす。
-
『春秋左氏伝』成公十六年 晋の政、門多し七月、公尹武公及び諸侯に會して鄭を伐つ。將に行かんとす。姜又公に命ずること初めの如し。公又守を申ねて行く。諸侯の師、鄭の西に次る。我が師督揚に次り、敢へて鄭を過ぎず。子叔聲伯叔孫豹をして逆を晉の師に請はしめ、食を鄭の郊に為る。師逆へて以って至る。聲伯四日食はずして以って之を待ち、使者に食はしめて、而る後に食ふ。諸侯制田に遷る。知武子下軍に佐たり、諸侯の師を以って陳を侵し、鳴鹿に至る。遂に蔡を侵して未だ反らず。諸侯潁上に遷る。戊午、鄭の子罕宵に之に軍し、宋・齊・衞皆軍を失ふ。曹人復た晉に請ふ。晉侯子臧に謂ふ、「反れ。吾而の君を歸さん」と。子臧反り、曹伯歸る。子臧盡く其の邑と卿とを致して、出でず。宣伯郤犨に告げしめて曰く、「魯の季・孟有るは、猶ほ晉の欒・范有るがごときなり。政令是に於いてか成る。今其の謀りて曰く、『晉の政は門多し、從ふ可からざるなり。寧ろ齊・楚に事へん。亡ぶる有るのみ。晉に從ふこと蔑からん』と。若し志を魯に得んと欲せば、請ふ行父を止めて之を殺せ。我蔑を斃して晉に事へん。貳有ること蔑からん。魯貳せずんば、小國必ず睦まじ。然らずんば、歸りて必ず叛かん」と。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る