宋名臣言行録 / 前集巻八・吳育
公爲叅政山東盗起仁宗遣中使察視還奏盗不足慮惟兖州杜衍鄆州富弼得山東心此爲可憂上欲徙二人淮南公曰盗誠不足慮而小人乗時以傾大臣非國家福也上嘗語輔臣曰育剛正可用但嫉惡太過耳
新字:公為参政山東盗起仁宗遣中使察視還奏盗不足慮惟兗州杜衍鄆州富弼得山東心此為可憂上欲徙二人淮南公曰盗誠不足慮而小人乗時以傾大臣非国家福也上嘗語輔臣曰育剛正可用但嫉悪太過耳
書き下し
公、參政と爲る。山東に盗起こる。仁宗、中使を遣わして察視せしむ。還りて奏す、盗は慮るに足らず。惟だ兖州の杜衍・鄆州の富弼のみ山東の心を得たり。此れ憂う可しと爲すと。上、二人を淮南に徙さんと欲す。公曰く、盗は誠に慮るに足らず。而して小人、時に乗じて以て大臣を傾くるは、國家の福に非ざるなりと。上嘗て輔臣に語りて曰く、育は剛正にして用う可し。但だ惡を嫉むこと太だ過ぐるのみと。
現代語訳
公は参知政事となった。山東に盗賊が起こった。仁宗は宦官の使者を遣わして視察させた。帰って奏上した。「盗賊は憂えるに足りません。ただ兗州の杜衍と鄆州の富弼だけが山東の心を得ております。これこそ憂えるべきです」。帝は二人を淮南に移そうとした。公は言った。「盗賊はまことに憂えるに足りません。しかし小人が時に乗じて大臣を倒そうとするのは、国家の福ではありません」。帝はかつて輔佐の臣に言った。「呉育は剛直で正しく、用いることができる。ただ悪を憎むことが度を越しているだけだ」。
解説
視察の報告が、盗賊ではなく人望のある二人を「憂えるべき」と告げた条です。危ういのは賊ではなく、賊より慕われている大臣のほうだ、と。帝はそれで動きかけました。返しが一行です。盗賊はまことに憂えるに足りません。しかし小人が時に乗じて大臣を倒そうとするのは、国家の福ではありません。報告の中身ではなく、報告した動機のほうを見ています。
この章句が説くこと
惟だ兗州の杜衍鄆州の富弼のみ山東の心を得たり此れ憂う可しと為す惟だ兖州の杜衍鄆州の富弼のみ山東の心を得たり此れ憂う可しと為す小人時に乗じて以て大臣を傾くるは国家の福に非ざるなり育は剛正にして用う可し但だ悪を嫉むこと太だ過ぐるのみ讒言動機
関連する章句
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『春秋左氏伝』昭公二十七年 費無極、郤宛を譖す郤宛は直にして和なり。國人之を說ぶ。鄢將師(えんしょうし)右領と為り、費無極と比して之を惡む。令尹子常は賄(まいなひ)ありて讒を信ず。無極、郤宛を焉に譖す。子常に謂ひて曰く、「子惡、子に酒を飲ましめんと欲す」と。又子惡に謂ふ、「令尹、酒を子の氏に飲まんと欲す」と。子惡曰く、「我は賤人なり、以って令尹を辱むるに足らず。令尹將に必ず來辱せんとす。惠を為すこと已(すで)に甚だし。吾以って之に酬ゆる無し。若何せん」と。無極曰く、「令尹は甲兵を好む。子之を出せ。吾擇ばん」と。五甲五兵を取りて曰く、「諸を門に寘け。令尹至らば、必ず之を觀ん。而して從ひて以って之を酬いよ」と。饗日に及び、諸を門の左に帷す。無極令尹に謂ひて曰く、「吾幾ど子に禍せんとす。子惡將に子の為に不利ならんとす。甲門に在り。子必ず往くこと無かれ。且つ此の役や、吳以って志を得可かりしに、子惡賂を取りて還り、又群帥を誤りて、
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