宋名臣言行録 / 前集巻八・狄青
方慶歴中葛懐敏與元昊戰於廣州懷敏敗死諸校與士卒既敗多竄山谷間是時以權宜招納皆許不死自此軍多棄其將不肯死戰故青云自廣州之敗賞罰不明翰林學士蔡襄亦言聞於青者如此
新字:方慶歴中葛懐敏与元昊戦於広州懐敏敗死諸校与士卒既敗多竄山谷間是時以権宜招納皆許不死自此軍多棄其将不肯死戦故青云自広州之敗賞罰不明翰林学士蔡襄亦言聞於青者如此
書き下し
方に慶歴中、葛懐敏、元昊と廣州に戰う。懷敏敗死す。諸校と士卒、既に敗れて多く山谷の間に竄る。是の時、權宜を以て招納し、皆な死せざるを許す。此れより軍、多く其の將を棄てて死戰するを肯んぜず。故に青云う、廣州の敗より賞罰明らかならずと。翰林學士蔡襄も亦た言う、青に聞く所は此くの如しと。
現代語訳
ちょうど慶暦年間、葛懐敏が趙元昊と広州で戦った。葛懐敏は敗れて死んだ。副官たちと兵は、敗れてから多くが山や谷の間に逃げ隠れた。当時、その場しのぎに呼び戻して、みな死罪にしないと許した。これ以後、軍の多くはその将を捨てて死戦しようとしなくなった。だから狄青は「広州の敗戦以来、賞罰が明らかでない」と言ったのである。翰林学士の蔡襄もまた、狄青から聞いたのはこのとおりだ、と言った。
解説
「賞罰が明らかでない」の中身を、後から説明した条です。**敗れて逃げ隠れた者を、その場しのぎに呼び戻して、みな死罪にしないと許した。**人手が要ったからです。**これ以後、軍の多くはその将を捨てて死戦しようとしなくなった。**一度の恩赦が、逃げてもよいという前例になりました。三十二人を斬ったのは、この前例を消すためだった、ということが最後に分かります。
この章句が説くこと
是の時権宜を以て招納し皆な死せざるを許す此れより軍多く其の将を棄てて死戦するを肯んぜず故に青云う広州の敗より賞罰明らかならず前例恩赦士気
関連する章句
-
李衛公問対・卷下夫れ用兵の法は、必ず先ず吾が士衆を察し、吾が勝氣を激して、乃ち以て敵を擊つべし。吳起の『四機』は、氣機を以て上と爲す。他の道無きなり。能く人人をして自ら鬬わしむれば、則ち其の銳當たる莫し。
-
孫子・作戦篇故に智将は敵に食するを務む。敵に食する一鍾は、吾が二十鍾に当たり、萁稈一石は、吾が二十石に当たる。
-
『韓非子』二柄第七明主の其の民を導制する所の者は、二柄のみ。二柄とは、刑・徳なり。
-
『韓非子』外儲説右下第三十五賞罰共にすれば則ち禁令行われず。何を以て之を明らかにせん。之を明らかにするに造父・於期を以てす。
-
孫子・行軍篇數々賞する者は、窘するなり。數々罰する者は、困しむなり。先に暴にして後に其の衆を畏るる者は、不精の至りなり。来たりて委謝する者は、休息を欲するなり。
-
『韓非子』難一第三十六今赫は僅かに驕侮せざるのみにして、襄子之を賞するは、是れ賞を失うなり。明主は賞を無功に加えず、罰を無罪に加えず。