宋名臣言行録 / 前集巻七・范仲淹
公在睢陽遣堯夫到姑蘓取麥五百斛堯夫時尚少既還舟次丹陽見石曼卿問寄此乆何如曼卿曰兩月矣三喪在淺土欲葬之而北歸無可與謀者堯夫以所載麥舟付之單騎自長蘆㨗徑而去到家拜起侍立良乆公曰東吳見故舊乎曰曼卿為三喪未舉方留滯丹陽時無郭元振莫可告者公曰何不以麥舟與之堯夫曰已付之矣
新字:公在睢陽遣堯夫到姑蘓取麦五百斛堯夫時尚少既還舟次丹陽見石曼卿問寄此乆何如曼卿曰両月矣三喪在浅土欲葬之而北帰無可与謀者堯夫以所載麦舟付之単騎自長蘆㨗径而去到家拝起侍立良乆公曰東吳見故旧乎曰曼卿為三喪未舉方留滞丹陽時無郭元振莫可告者公曰何不以麦舟与之堯夫曰已付之矣
書き下し
公、睢陽に在り。堯夫を遣わして姑蘓に到りて麥五百斛を取らしむ。堯夫、時に尚お少なし。既に還る。舟、丹陽に次る。石曼卿に見ゆ。此に寄すること乆しきは何如と問う。曼卿曰く、兩月なり。三喪、淺土に在り。之を葬りて北歸せんと欲すれども、與に謀る可き者無しと。堯夫、載する所の麥舟を以て之に付し、單騎、長蘆より㨗徑して去る。家に到り、拜し起ちて侍立すること良や乆し。公曰く、東吳にて故舊に見えたるかと。曰く、曼卿、三喪未だ舉がらざるが為に、方に丹陽に留滯す。時に郭元振無く、告ぐ可き者莫しと。公曰く、何ぞ麥舟を以て之に與えざるやと。堯夫曰く、已に之に付せりと。
現代語訳
公は睢陽にいた。范純仁をやって姑蘇に行き、麦五百斛を取ってこさせた。范純仁は当時まだ若かった。取って帰ってきた。舟が丹陽に泊まった。石延年に会った。ここに長く留まっているのはどういうわけかと尋ねた。石延年は言った。「二か月になる。三つの棺が浅い土に置かれたままだ。葬って北へ帰りたいのだが、相談できる相手がいない」。范純仁は積んでいた麦の舟をそのまま渡し、一騎で長蘆から近道を通って去った。家に着き、拝礼して立ち、長いあいだ侍立していた。公は言った。「東呉で旧知の者に会ったか」。「石延年が三つの葬儀をまだ挙げられずに、丹陽に留まっております。当時の郭元振のような人がなく、頼れる相手がいないのです」。公は言った。「どうして麦の舟をやらなかったのか」。范純仁は言った。「もう渡しました」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
孫子・地形篇卒を視ること嬰児の如し、故に之と深谿に赴くべし。卒を視ること愛子の如し、故に之と俱に死すべし。厚くして使う能わず、愛して令する能わず、乱れて治むる能わざれば、譬えば驕子の若く、用うべからざるなり。
-
論語・先進篇子曰く、論の篤きに是れ与せば、君子者か、色荘者か。
-
孫子・行軍篇丘陵堤防には、必ず其の陽に処りて、之を右背にす。此れ兵の利、地の助けなり。上に雨ふり、水沫至らば、渉らんと欲する者は、其の定まるを待て。
-
李衛公問対・卷下朕、千章萬句を觀るに、『多方以て之を誤らしむ』の一句を出でざるのみ。
-
孫子・火攻篇凡そ火攻は、必ず五火の変に因りて之に応ず。
-
孫子・行軍篇令素より行われて以て其の民を教うれば、則ち民服す。令素より行われずして以て其の民を教うれば、則ち民服せず。令素より行わるる者は、衆と相得るなり。