宋名臣言行録 / 前集巻七・范仲淹
公二嵗而孤母夫人貧無依再適長山朱氏既長知其世家感泣去之南都入學舍掃一室晝夜講誦其起居飲食人所不堪而公自刻益苦居五年大通六經之㫖為文章論説必本於仁義
新字:公二歳而孤母夫人貧無依再適長山朱氏既長知其世家感泣去之南都入学舎掃一室昼夜講誦其起居飲食人所不堪而公自刻益苦居五年大通六経之旨為文章論説必本於仁義
書き下し
公、二歳にして孤たり。母夫人、貧にして依る無く、再び長山の朱氏に適く。既に長じて其の世家を知る。感泣して之を去り、南都に之きて學舍に入る。一室を掃きて、晝夜講誦す。其の起居飲食は人の堪えざる所なり。而して公、自ら刻すること益々苦なり。居ること五年、大いに六經の㫖に通ず。文章・論説を為すに必ず仁義に本づく。
現代語訳
公は二歳で父を失った。母は貧しくて頼るところがなく、あらためて長山の朱氏に嫁いだ。成長してから、自分の生家を知った。感じて泣き、そこを去って南都に行き、学舎に入った。一室を掃いて、昼も夜も講義を聴き誦した。その起居や飲食は、人の堪えられないものであった。それでも公が自らを刻むことは、ますます苦しかった。五年いて、六経の趣旨に大いに通じた。文章や論説を作るのに、必ず仁義に基づいた。
解説
范仲淹(九八九〜一〇五二)の始まりの一条です。**二歳で父を失い、母は再嫁した。成長してから自分の生家を知り、感じて泣いてそこを去った。**行った先が南都の学舎で、これは前の巻で晏殊が興した学校です。**一室を掃いて昼夜講義を聴き誦し、起居も飲食も人の堪えられないものだった。**五年で六経に通じています。この後の生涯が、ここから始まります。
この章句が説くこと
公二歳にして孤たり母夫人貧にして依る無く再び長山の朱氏に適く既に長じて其の世家を知る感泣して之を去り南都に之きて学舎に入る其の起居飲食は人の堪えざる所なり出自苦学志
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