宋名臣言行録 / 前集巻六・晏殊
公為童子時張文節薦之於朝召至闕下適值御試進士便令公就試公一見試題曰臣十日前已作此賦有賦草尚在乞别命題上極愛其不隠及為館職時天下無事許臣僚擇勝燕飲當時侍從文館士大夫各為宴集以至市樓酒肆往往皆供帳為遊息之地公時貧甚不能出獨家居與兄弟講習一日選東宫官忽自中批除晏殊執政莫諭所因次日進覆上諭曰近聞館閣臣寮無不嬉遊宴賞彌日繼夕惟殊杜門與兄弟讀書如此謹厚正可為東宫官公既受命得對上面諭除授之意公語言質野對曰臣非不樂宴遊者直以貧無可為之具臣若有錢亦須往但無錢不能出耳上益嘉其誠實知事君體眷注日深仁宗時卒至大用
新字:公為童子時張文節薦之於朝召至闕下適値御試進士便令公就試公一見試題曰臣十日前已作此賦有賦草尚在乞別命題上極愛其不隠及為館職時天下無事許臣僚択勝燕飲当時侍従文館士大夫各為宴集以至市楼酒肆往往皆供帳為遊息之地公時貧甚不能出独家居与兄弟講習一日選東宮官忽自中批除晏殊執政莫諭所因次日進覆上諭曰近聞館閣臣寮無不嬉遊宴賞弥日継夕惟殊杜門与兄弟読書如此謹厚正可為東宮官公既受命得対上面諭除授之意公語言質野対曰臣非不楽宴遊者直以貧無可為之具臣若有銭亦須往但無銭不能出耳上益嘉其誠実知事君体眷注日深仁宗時卒至大用
書き下し
公、童子たる時、張文節、之を朝に薦む。召して闕下に至る。適ま御試進士に値う。便ち公をして試に就かしむ。公一たび試題を見て曰く、臣、十日前已に此の賦を作れり。賦草尚お在り。乞う、别に題を命ぜよと。上、極めて其の隠さざるを愛す。館職と為るに及び、時に天下事無し。臣僚の勝を擇びて燕飲するを許す。當時の侍從・文館の士大夫、各々宴集を為す。以て市樓・酒肆に至るまで往往にして皆な供帳し、遊息の地と為す。公、時に貧なること甚だし。出づる能わず。獨り家居して兄弟と講習す。一日、東宫の官を選ぶ。忽ち中より批して晏殊を除して執政とす。因る所を諭る莫し。次日、進覆す。上諭して曰く、近ごろ聞く、館閣の臣寮、嬉遊宴賞して日に彌り夕に繼がざるは無し。惟だ殊のみ門を杜ざして兄弟と書を讀む。此くの如く謹厚なれば、正に東宫の官と為す可しと。公既に命を受けて對を得たり。上、面のあたり除授の意を諭す。公、語言質野なり。對えて曰く、臣、宴遊を樂しまざるに非ず。直だ貧にして為す可きの具無きを以てなり。臣、若し錢有らば、亦た須らく往くべし。但だ錢無くして出づる能わざるのみと。上、益々其の誠實にして君に事うるの體を知るを嘉す。眷注日に深し。仁宗の時、卒に大用に至る。
現代語訳
公が子どものころ、張知白が朝廷に推薦した。召されて宮門に至った。ちょうど進士の御前試験に当たっていた。そのまま公にも受験させた。公は試験の題を一目見て言った。「臣は十日前にすでにこの賦を作りました。その下書きもまだあります。どうか別の題をお命じください」。帝はその隠さないところをたいそう愛した。館職となったとき、当時は天下に事が無かった。臣僚が景勝の地を選んで宴を張ることが許されていた。当時の侍従や文館の士大夫は、それぞれ宴を催した。市の楼や酒屋に至るまで、たいてい幕を張って遊び憩う場所とした。公は当時、ひどく貧しかった。出かけることができなかった。ただ家にいて兄弟と読書していた。ある日、東宮の官を選ぶことになった。突然、宮中から書きつけが下って晏殊を執政に任じた。誰も理由が分からなかった。翌日、あらためて伺った。帝は告げて言った。「近ごろ聞くところでは、館閣の臣僚で遊び楽しみ宴を張って、日に日に、夜まで続けない者はない。ただ晏殊だけが門を閉ざして兄弟と書を読んでいる。これほど慎み深く篤実なら、まさに東宮の官とすべきである」。公は命を受けて拝謁を許された。帝は面と向かって任命の趣旨を告げた。公の言葉つきは飾り気がなかった。答えて言った。「臣は宴遊を楽しまないわけではありません。ただ貧しくて、そのための道具が無いからです。臣にもし金があれば、やはり行くでしょう。ただ金が無くて出かけられないだけです」。帝はますますその誠実さと、君に仕える筋を心得ていることを喜んだ。目をかけることが日ごとに深くなった。仁宗の時、ついに大いに用いられるに至った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』耕柱巫馬子、子墨子に謂う、「之れ義を為すや、人、見ずして耶し、鬼、見ずして富ます。而るに子、之を為すは、狂疾有り」と。子墨子曰く、「今、子をして二臣を此に有らしめん。其の一人なる者は、子を見れば事に従い、子を見ざれば則ち事に従わず。其の一人なる者は、子を見るも亦た事に従い、子を見ざるも亦た事に従う。子、此の二人に於いて誰をか貴ばん」と。巫馬子曰く、「我れは其の我を見るも亦た事に従い、我を見ざるも亦た事に従う者を貴ばん」と。子墨子曰く、「然らば則ち是れ子も亦た狂疾有るを貴ぶなり」と。
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史記 刺客列伝高漸離名姓を変じて人の庸保と為り、宋子に匿れ作す。之を久しくして、作苦しく、其の家の堂上に客の筑を撃つを聞き、傍偟して去る能はず。毎に言を出だして曰く、「彼に善有り善ならざる有り」と。従者以て其の主に告げて曰く、「彼の庸は乃ち音を知り、竊かに是非を言ふ」と。家の丈人召して前に筑を撃たしむ。一坐善しと称し、酒を賜ふ。而して高漸離、久しく隠れて畏約すること窮まる時無きを念ひ、乃ち退きて、其の装匣の中の筑と其の善衣とを出だし、容貌を更めて前む。坐を挙げて客皆驚き、下りて与に抗礼し、以て上客と為す。筑を撃ちて歌はしむ。客流涕して去らざる者無し。宋子伝へて之を客とし、秦の始皇に聞こゆ。秦の始皇召し見る。人識る者有りて、乃ち曰く、「高漸離なり」と。秦の皇帝其の善く筑を撃つを惜しみ、重ねて之を赦し、乃ち其の目を矐す。筑を撃たしむるに、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。稍く益々之に近づく。高漸離乃ち鉛を以て筑の中に置き、復た進みて近づくを得、筑を挙げて秦の皇帝を樸つ。中らず。是に於て遂に高漸離を誅し、身を終ふるまで復た諸侯の人に近づかず。魯句践已に荊軻の秦王を刺せしを聞き、私かに曰く、「嗟乎、惜しいかな其の刺剣の術を講ぜざりしや。甚だしいかな吾の人を知らざるや。曩者吾之を叱す。彼乃ち我を以て人に非ずと為せしならん」と。太史公曰く、世に荊軻を言ふに、其の太子丹の命を称して、「天粟を雨らし、馬角を生ず」とするや、太だ過ぎたり。又荊軻秦王を傷つくと言ふも、皆非なり。始め公孫季功・董生、夏無且と游び、具に其の事を知り、余の為に之を道ふこと是の如し。曹沫より荊軻に至るまで五人、此れ其の義或いは成り或いは成らず。然れども其の意を立つること較然として、其の志を欺かず、名後世に垂る。豈に妄ならんや。
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