宋名臣言行録 / 前集巻六・陳堯佐
故事知制誥者先試其文辭天子以公文學天下所知不復命試自國朝以來不試知制誥者唯楊億及公二人而已
新字:故事知制誥者先試其文辞天子以公文学天下所知不復命試自国朝以来不試知制誥者唯楊億及公二人而已
書き下し
故事、知制誥は先ず其の文辭を試む。天子、公の文學の天下の知る所なるを以て、復た試を命ぜず。國朝より以来、知制誥を試みざる者は、唯だ楊億及び公の二人のみ。
現代語訳
先例では、知制誥に任じるにはまずその文章を試験した。天子は、公の文学が天下の知るところだからとして、あらためて試験を命じなかった。本朝が始まって以来、知制誥に試験を課されなかった者は、ただ楊億と公の二人だけであった。
解説
四十五字の条です。本朝が始まって以来、知制誥に試験を課されなかった者は、ただ楊億と公の二人だけであった。先例を省いた、というだけの記録ですが、その数が二人しかいないという一点で重みが出ています。省略が名誉になるのは、それが滅多に起きないからです。前に読んだ楊億は、その職で「直しが入るのは職に堪えないということだ」と辞職を願い出た人でした。
この章句が説くこと
故事知制誥は先ず其の文辞を試む天子公の文学の天下の知る所なるを以て復た試を命ぜず知制誥を試みざる者は唯だ楊億及び公の二人のみ先例免除名誉
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