宋名臣言行録 / 前集巻五・王曽
公在中書聞謂卒顧謂同列曰斯人平生多智其在海外猶能用智而還若不死數年未必不復用斯人復用則天下之不幸可勝道哉吾非幸其死也
新字:公在中書聞謂卒顧謂同列曰斯人平生多智其在海外猶能用智而還若不死数年未必不復用斯人復用則天下之不幸可勝道哉吾非幸其死也
書き下し
公、中書に在り。謂の卒するを聞く。顧みて同列に謂いて曰く、斯の人、平生智多し。其の海外に在るも猶お能く智を用いて還る。若し死せずんば、數年、未だ必ずしも復た用いられずんばあらず。斯の人復た用いられば、則ち天下の不幸、勝げて道う可けんや。吾れ其の死を幸うに非ざるなりと。
現代語訳
公が中書省にいた。丁謂が死んだと聞いた。振り返って同僚に言った。「この人は生涯、智恵が多かった。海の外に流されてさえ、なお智恵を使って帰ってきた。もし死ななければ、数年のうちに、また用いられなかったとは限らない。この人がまた用いられれば、天下の不幸は言い尽くせないだろう。私はその死を喜んでいるのではない」。
解説
自分が倒した相手の訃報に接した条です。まず能力を認めています。海の外に流されてさえ、なお智恵を使って帰ってきた。そして復帰の可能性まで見積もったうえで、天下の不幸だと言う。最後の一行がこの条の要です。私はその死を喜んでいるのではない。言い訳にも聞こえますが、わざわざそう言い添えたところに、この人の線の引き方が出ています。
この章句が説くこと
斯の人平生智多し其の海外に在るも猶お能く智を用いて還る斯の人復た用いられば則ち天下の不幸勝げて道う可けんや吾れ其の死を幸うに非ざるなり政敵評価公私
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