宋名臣言行録 / 前集巻四・王曙
公治蜀頗以法御下有謗其太苛㑹劉煜召還為右正言真宗召問凌䇿王曙治蜀孰優曰凌䇿在蜀值嵗豐故得以平易治之王曙值嵗歉慮民為盗故以法治之使易地則皆然上善其言
新字:公治蜀頗以法御下有謗其太苛会劉煜召還為右正言真宗召問凌策王曙治蜀孰優曰凌策在蜀値歳豊故得以平易治之王曙値歳歉慮民為盗故以法治之使易地則皆然上善其言
書き下し
公、蜀を治むるに頗る法を以て下を御す。其の太だ苛なるを謗る有り。㑹々劉煜召し還されて右正言と為る。真宗召して問う、凌䇿と王曙と、蜀を治むること孰れか優れると。曰く、凌䇿の蜀に在るは歳の豐なるに値う。故に平易を以て之を治むるを得たり。王曙は歳の歉なるに值う。民の盗を為さんことを慮る。故に法を以て之を治む。地を易えしめば則ち皆な然らんと。上、其の言を善しとす。
現代語訳
公は蜀を治めるのに、もっぱら法によって下の者を御した。厳しすぎると謗る者があった。ちょうど劉煜が召し返されて右正言となった。真宗が召して尋ねた。「凌策と王曙とでは、蜀を治めるのはどちらが優れているか」。答えた。「凌策が蜀にいたのは豊作の年に当たりました。だから穏やかなやり方で治めることができたのです。王曙は凶作の年に当たりました。民が盗みを働くことを心配しました。だから法によって治めたのです。二人の場所を入れ替えれば、どちらも同じようにしたでしょう」。帝はその言葉をよしとした。
解説
二人の優劣を問われて、条件のほうを答えた条です。凌策は豊作の年、王曙は凶作の年に当たった。場所を入れ替えれば、どちらも同じようにしただろう。人物の差ではなく、置かれた年の差だ、と言い切っています。厳しすぎるという評判が立っていた側を、こう庇いました。同じやり方の善し悪しを、いつどこで、という条件抜きに比べていないところが要です。
この章句が説くこと
凌策の蜀に在るは歳の豊なるに値う故に平易を以て之を治むるを得たり王曙は歳の歉なるに値う民の盗を為さんことを慮る王曙は歳の歉なるに值う民の盗を為さんことを慮る地を易えしめば則ち皆な然らん比較条件
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