宋名臣言行録 / 前集巻四・楊億
范文正贊公畫像曰公以命世之才其位不充故天下知公之文而未知公之道也昔王文正公居宰府僅二十年未嘗見愛惡之迹天下謂之大雅萊公當國真宗有澶淵之幸而能左右天子如山不動却戎狄保宗社天下謂之大忠樞宻扶風馬公慷慨立朝有犯無隠天下謂之大直此三君子者一代之偉人也公與三君子深相交許情如金石則公之道其正可知矣
新字:范文正賛公画像曰公以命世之才其位不充故天下知公之文而未知公之道也昔王文正公居宰府僅二十年未嘗見愛悪之迹天下謂之大雅萊公当国真宗有澶淵之幸而能左右天子如山不動却戎狄保宗社天下謂之大忠枢密扶風馬公慷慨立朝有犯無隠天下謂之大直此三君子者一代之偉人也公与三君子深相交許情如金石則公之道其正可知矣
書き下し
范文正、公の畫像を贊して曰く、公は命世の才を以てして、其の位充たず。故に天下、公の文を知りて、未だ公の道を知らざるなり。昔、王文正公、宰府に居ること僅かに二十年。未だ嘗て愛惡の迹を見ず。天下之を大雅と謂う。萊公、國に當たる。真宗に澶淵の幸有り。而して能く天子を左右すること山の如く動かず、戎狄を却け宗社を保つ。天下之を大忠と謂う。樞宻扶風の馬公、慷慨として朝に立ち、犯すこと有りて隠すこと無し。天下之を大直と謂う。此の三君子は一代の偉人なり。公、三君子と深く相い交許し、情、金石の如し。則ち公の道の其れ正しきこと知る可し。
現代語訳
范仲淹が公の肖像画に賛を書いて言った。「公は世に命ぜられるほどの才を持ちながら、その位はそれに満たなかった。だから天下は公の文章を知って、まだ公の道を知らない。昔、王旦が宰相の府にいたのは二十年ばかりであった。ついに好き嫌いの跡を見せたことがなかった。天下はこれを大雅と呼ぶ。萊公が国に当たったとき、真宗の澶淵行幸があった。そして天子を助け導くこと山のように動かず、異民族を退けて宗廟社稷を保った。天下はこれを大忠と呼ぶ。枢密の扶風の馬公は、慷慨として朝廷に立ち、正面から犯すことはあっても隠すことはなかった。天下はこれを大直と呼ぶ。この三人の君子は一代の偉人である。公はこの三人の君子と深く相許して交わり、情は金石のようであった。それによって、公の道が正しかったことが分かる」。
解説
この章句が説くこと
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『韓非子』揚權第八其の采を見さざれば、下故に素正なり。因りて之に任じ、自ら之を事とせしむ。其の事に因りて、彼将に自ら之を挙げんとす。正して之に処らしめ、皆自ら之を定めしむ。上は名を以て之を挙げ、其の名を知らざれば、復た其の形を脩む。形名参同すれば、其の生ずる所を用ふ。二者誠に信なれば、下乃ち情を貢す。謹みて事とする所を脩め、命を天に待つ。其の要を失ふ毋くんば、乃ち聖人と為る。聖人の道は、智と巧とを去る。智巧去らざれば、以て常と為し難し。民人之を用ゐれば、其の身殃多し。主上之を用ゐれば、其の国危亡す。天の道に因り、形の理に反り、督参して之を鞠し、終はれば則ち始め有り。虚にして以て静後し、未だ嘗て己を用ゐず。凡そ上の患ひは、必ず其の端を同じくす。信にして同じくする勿くんば、万民一に従ふ。夫れ道は、弘大にして形無し。徳は、理を覈めて普く至る。群生に至るまで、斟酌して之を用ゐ、万物皆盛んにして、其の寧きに与らず。道は、下事に周く、稽に因りて命じ、時と生死す。名を参じ事を異にし、一に通じ情を同じくす。故に曰く、道は万物に同じからず、徳は陰陽に同じからず、衡は軽重に同じからず、縄は出入に同じからず、和は燥湿に同じからず、君は群臣に同じからず。凡そ此の六者は、道の出づるなり。道に双無し、故に一と曰ふ。是の故に明君は独道の容を貴ぶ。君臣道を同じくせず、下は名を以て禱る。君其の名を操り、臣其の形を效す。形名参同すれば、上下和調す。凡そ聴くの道は、其の出だす所を以て、反りて以て之が入ると為す。故に名を審らかにして以て位を定め、分を明らかにして以て類を辯ず。
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『呻吟語』内篇・修身・眾皆な之を悅ぶも、其の士爲る者之を笑ふ天下相忘るるを難しとせず、只だ一人の竊かに笑ふを怕る。夫れ舉世の道を聞かざるや久し。而して道を聞く者未だ必ずしも人無からず。苟しくも道を聞く者の知る所と為らば、一世之を非とすと雖も可なり。苟しくも道を聞く者の笑ふ所と為らば、天下之を是とすと雖も、終に純正の學に非ず。故に曰く、眾皆な之を悅ぶも、其の士爲る者之を笑ふと。識有るの君子は、必ず眾の悅ぶを以て一笑に博せざるなり。
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『配所残筆』配所殘筆(13)如此高ぶりたる事申候と可有之候、然處因州公御事は、御老年と申、御學問之義只今の御大名には無之候、其上紀伊守殿但馬守殿御家に諸家之名高者大勢被召抱、高知之者共罷在候、如斯者共之咄被爲聞、殊更兵學之儀兼而被仰聞候間、拙者躰御噂批判可仕候樣無之候、松浦公御事は因州公より少々御年下に被成御座候、御自分の御文學者無御座候へ共、晝夜書物等被聞召、文武之諸藝儒佛之御勤御怠不被成候、其上當代之古老衆每度御招請被成、御當家上方衆之近代之物語大分被成御存候、近年御家中に諸歷々方高知にて被差置、尤能者共御使立被成候、依て中根宋閑石谷士入常に被申候者、御家中之作法人の御使立被成候樣、若年には珍敷武將にて可有之由、度々被申候を、石谷市郎右衞門殿並拙者抔も承候事に候、然共此御兩公樣御事は、御自分より初御家中御領內迄之御作法御仕置無殘所候樣乍恐奉存候、然に一兩度者時の御挨拶と奉存候、度々被仰聞候事に御座候へば、拙者存念は立候て安堵仕候、拙者事御存被成御方々樣者、御分限不被成御座候、御存無之御方者、無途方者に可被思召候間、拙者事は當分永之浪人と覺悟候故、諸事逼塞仕罷在候所存に御座候由、其節申上候、
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尉繚子・兵教上民をして国門の限を背にし、死生の分を決せしめ、之に死して疑はざるを教ふる者は、以有るなり。守る者をして必ず固く、戦ふ者をして必ず闘ひ、奸謀作らず、姦民語らず、令行はれて変無く、兵行はれて猜無く、軽き者は霆の若く、敵に奮ふこと驚くが若くせしむ。功を挙げ徳を別つこと、明らかなること白黒の如く、
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史記 李将軍列伝此を用て、其の兵を将ゐて数々困辱せられ、其の猛獣を射るも亦傷つけらるる所と為ると云ふ。居ること頃之、石建卒す。是に於て上広を召して建に代はりて郎中令と為す。元朔六年、広復た後将軍と為り、大将軍の軍に従ひて定襄より出で、匈奴を撃つ。諸将多く首虜の率に中りて功を以て侯と為る者あり。而るに広の軍功無し。後二歳、広郎中令を以て四千騎を将ゐて右北平より出づ。博望侯張騫万騎を将ゐて広と倶にし、道を異にす。行くこと数百里可り、匈奴の左賢王四万騎を将ゐて広を囲む。広の軍士皆恐る。広乃ち其の子敢をして往きて之に馳せしむ。敢独り数十騎と馳せ、直ちに胡騎を貫き、其の左右に出でて還り、広に告げて曰く、「胡虜は与し易きのみ」と。軍士乃ち安んず。広圜陳を為して外に向かふ。胡急に之を撃ち、矢の下ること雨の如し。漢の兵死する者半ばを過ぎ、漢の矢且に尽きんとす。広乃ち士をして満を持して発する毋からしめ、而して広身自ら大黄を以て其の裨将を射、数人を殺す。胡虜益々解く。会々日暮れ、吏士皆人色無し。而るに広は意気自如として、益々軍を治む。軍中是より其の勇に服するなり。明日、復た力戦し、而して博望侯の軍も亦至る。匈奴の軍乃ち解きて去る。漢の軍罷れて、追ふ能はず。是の時広の軍幾ど没し、罷めて帰る。漢の法、博望侯留遅して期に後る、死に当たり、贖ひて庶人と為る。広の軍功は自如にして、賞無し。初め、広の従弟李蔡広と倶に孝文帝に事ふ。景帝の時、蔡功労を積みて二千石に至る。孝武帝の時、代の相に至る。元朔五年を以て軽車将軍と為り、大将軍に従ひて右賢王を撃ち、功有りて率に中り、封じて楽安侯と為す。元狩二年中、公孫弘に代はりて丞相と為る。蔡の人と為りは下の中に在り、名声は広の下に出づること甚だ遠し。然れども広は爵邑を得ず、官は九卿に過ぎず。而るに蔡は列侯と為り、位三公に至る。
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論語・子張篇陳子禽、子貢に謂いて曰く、「子は恭を為すなり。仲尼豈に子より賢らんや。」子貢曰く、「君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎まざる可からざるなり。夫子の及ぶ可からざるや、猶お天の階して升る可からざるがごときなり。夫子の邦家を得たらば、所謂『之を立つれば斯に立ち、之を道けば斯に行き、之を綏んずれば斯に来たり、之を動かせば斯に和す。其の生くるや栄え、其の死するや哀しむ』。之を如何ぞ其れ及ぶ可けんや。」

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