宋名臣言行録 / 前集巻四・楊億
公年十一太宗親試一賦二詩頃刻而成上喜送中書再試執政令賦喜朝京闕詩亦立就且有願秉清忠節終身立聖朝之句宰相表賀
書き下し
公、年十一。太宗、親ら一賦二詩を試む。頃刻にして成る。上喜びて中書に送りて再び試みしむ。執政、喜朝京闕の詩を賦せしむ。亦た立ちどころに就る。且つ願わくは清忠の節を秉り、終身聖朝に立たんの句有り。宰相、表して賀す。
現代語訳
公は十一歳であった。太宗が自ら賦一つと詩二つを課した。たちまち出来上がった。帝は喜んで中書省へ送り、もう一度試させた。執政は「喜朝京闕」の詩を作らせた。これもたちどころに出来た。そのうえ「願わくは清く忠なる節を守り、終身この聖なる朝廷に立ちたい」という句があった。宰相は上表して祝賀した。
解説
十一歳で、賦一つと詩二つをたちまち書いた条です。神童として召されました。目を引くのは詩の中身のほうです。**願わくは清く忠なる節を守り、終身この聖なる朝廷に立ちたい。**十一歳が自分で置いた誓いです。この後の条では、契丹への文書を直された件で職を辞そうとし、讒言されて夜中に呼び出され、母の病で辞して帰り、それでも攻撃され続けます。誓いのとおりに生きて、そのとおり苦しんだ人です。
この章句が説くこと
願わくは清忠の節を秉り終身聖朝に立たん公年十一太宗親ら一賦二詩を試む頃刻にして成る亦た立ちどころに就る神童誓い才能
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