宋名臣言行録 / 前集巻四・髙瓊
家世燕人徙亳州事太宗真宗官至太尉曽孫女配英宗為宣仁聖烈皇后
書き下し
家世は燕人。亳州に徙る。太宗・真宗に事う。官は太尉に至る。曽孫女、英宗に配して宣仁聖烈皇后と為る。
現代語訳
家は代々燕の人であった。亳州に移った。太宗と真宗に仕えた。官は太尉に至った。曽孫の娘は英宗の后となり、宣仁聖烈皇后となった。
解説
高瓊(九三五〜一〇〇六)の来歴を、二十九字で記した一条です。**燕の人で、亳州に移り、太宗と真宗に仕え、太尉に至った。**科挙を経ていない武人です。最後の一行が効いています。**曽孫の娘は英宗の后となり、宣仁聖烈皇后となった。**後に幼い哲宗を後見して「女中の堯舜」と呼ばれる人です。澶淵の浮橋で御車を押した男の家から、その人が出ています。
この章句が説くこと
家世は燕人亳州に徙る太宗真宗に事う官は太尉に至る曽孫女英宗に配して宣仁聖烈皇后と為る来歴武人血筋
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