宋名臣言行録 / 後集巻十一・范純仁
宣仁寢疾宰輔入問后留忠宣曰卿父仲淹可謂忠臣在章獻朝勸后盡母道在仁宗朝勸帝盡子道卿當似之
新字:宣仁寝疾宰輔入問后留忠宣曰卿父仲淹可謂忠臣在章献朝勧后尽母道在仁宗朝勧帝尽子道卿当似之
書き下し
宣仁寢疾す。宰輔入りて問う。后忠宣を留めて曰く、卿の父仲淹は忠臣と謂う可し。章獻の朝に在りては后に母の道を盡くすを勸め、仁宗の朝に在りては帝に子の道を盡くすを勸めたり。卿當に之に似るべしと。
現代語訳
宣仁太后が病の床についた。宰相たちが参内して見舞った。太后は范純仁を引き留めて言った。「卿の父の范仲淹は、忠臣と言ってよい。章献太后の朝にあっては太后に母の道を尽くすよう勧め、仁宗の朝にあっては天子に子の道を尽くすよう勧めた。卿もそれに似るがよい」。
解説
四十三字の遺言です。褒め方が具体的でした。**章献太后の朝にあっては太后に母の道を尽くすよう勧め、仁宗の朝にあっては天子に子の道を尽くすよう勧めた。**どちらか一方に付いたのではありません。太后には太后のすべきことを、天子には天子のすべきことを言った。時期が違うので、そのつど相手が変わっています。そして自分の死後を頼んでいます。**卿もそれに似るがよい。**
この章句が説くこと
宣仁寝疾す宰輔入りて問う卿の父仲淹は忠臣と謂う可し章献の朝に在りては后に母の道を尽くすを勧む仁宗の朝に在りては帝に子の道を尽くすを勧めたり卿当に之に似るべし遺言母子
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