宋名臣言行録 / 前集巻四・冦凖
公為樞使利用為副公以其武人輕之議事有不合者輙曰君一夫耳豈解此國家大體利用由是銜之真宗將立劉氏公及王旦向敏中皆諌議為出于側㣲不可劉氏宗人横于蜀奪民鹽井上以后故欲捨之公固請行法時上已不豫不能記覽政事多宫中所決丁知曹冦不能平遂與利用合謀請罷公政事除太子太傅上初不知嵗餘忽問左右吾目中乆不見冦凖何也左右亦不敢言上崩太后稱制公再貶雷州
新字:公為枢使利用為副公以其武人軽之議事有不合者輙曰君一夫耳豈解此国家大体利用由是銜之真宗将立劉氏公及王旦向敏中皆諌議為出于側微不可劉氏宗人横于蜀奪民塩井上以后故欲捨之公固請行法時上已不予不能記覧政事多宮中所決丁知曹寇不能平遂与利用合謀請罷公政事除太子太傅上初不知歳余忽問左右吾目中久不見寇凖何也左右亦不敢言上崩太后称制公再貶雷州
書き下し
公、樞使と為り、利用副たり。公、其の武人なるを以て之を輕んず。事を議して合わざる者有れば、輙ち曰く、君は一夫のみ。豈に此の國家の大體を解せんやと。利用、是に由りて之を銜む。真宗將に劉氏を立てんとす。公及び王旦・向敏中、皆な諌議して、出づること側㣲に于いてすれば不可と為す。劉氏の宗人、蜀に横にして民の鹽井を奪う。上、后の故を以て之を捨てんと欲す。公固く法を行わんことを請う。時に上已に豫まず、記覽する能わず。政事、多く宫中の決する所なり。丁、曹・冦の平らかならざるを知り、遂に利用と合謀して公の政事を罷めんことを請い、太子太傅に除す。上、初め知らず。歳餘、忽ち左右に問う、吾が目中に乆しく冦凖を見ざるは何ぞやと。左右も亦た敢えて言わず。上崩じ、太后稱制す。公、再び雷州に貶せらる。
現代語訳
公が枢密使となり、曹利用が副使であった。公はその者が武人であることをもって軽んじた。議して意見が合わないことがあると、そのたび言った。「君は一介の男にすぎない。どうしてこの国家の大体が分かろうか」。曹利用はこれによって恨みを含んだ。真宗が劉氏を皇后に立てようとした。公および王旦・向敏中はみな諌めて、身分の低い出であるから不可であるとした。劉氏の一族の者が蜀で横暴に振る舞い、民の塩井を奪った。帝は皇后のゆえに見逃そうとした。公は強く法を行うよう求めた。当時、帝はすでに病んで、目を通すことができなかった。政事の多くは宮中で決まっていた。丁謂は曹利用と寇準の不仲を知って、そこで曹利用と謀り合わせて公の政事を罷めるよう願い出、太子太傅に任じさせた。帝ははじめ知らなかった。一年あまりして、突然側近に尋ねた。「私の目に長く寇準が見えないのは、どうしたわけか」。側近も、あえて言わなかった。帝が崩じ、太后が政を執った。公はふたたび雷州に流された。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』十六編・心事と働きと相当すべきの論・みだりに人を軽蔑する者はまた心事高尚にして働きに乏しき者は、人に厭われて孤立することあり。己が働きと他人の働きとを比較すればもとより及ぶべきにあらざれども、己が心事をもって他の働きを見れば、これに満足すべからずして、おのずから私に軽蔑の念なきを得ず。みだりに人を軽蔑する者は、必ずまた人の軽蔑を免るべからず。互いに相不平をいだき、互いに相蔑視して、ついには変人奇物の嘲りを取り、世間に歯すべからざるに至るものなり。今日世の有様を見るにあるいは傲慢不遜にして人に厭わるる者あり、あるいは人に勝つことを欲して人に厭わるる者あり、あるいは人に多を求めて人に厭わるる者あり、あるいは人を誹謗して人に厭わるる者あり。いずれもみな人に対して比較するところを失い、己が高尚なる心事をもって標的となし、これに照らすに他の働きをもってして、その際に恍惚たる想像を造り、もって人に厭わるるの端を開き、ついにみずから人を避けて独歩孤立の苦界に陥る者なり。
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『呻吟語』内篇・問學・根腳站立し住まらず道學の行はれざるは、只だ自家の根腳站立し住まらざるが為なり。或いは倡へて和せざれば、則ち勢孤なり。或いは守りて眾撓せば、則ち志惑ふ。或いは為して成らざれば、則ち氣沮む。或いは風俗に奪はるれば、則ち念雜なり。挺身自ら拔かんと要せば、須らく是れ萬夫も當たる莫きの勇、死して後已むの心有るべし。然らずんば、終日三五聚談し、唇を焦がし舌を敝らすも、甚の事をか成し得ん。
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易経・蒙卦用て人を刑するに利ろしとは、以て法を正すなり。子家を克くすとは、剛柔接わるなり。用て女を取る勿かれとは、行い順ならざるなり。蒙に困しむの吝は、独り実に遠ざかればなり。童蒙の吉は、順にして以て巽なればなり。寇を禦ぐに利ろしとは、上下順なるなり。
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易経・豐卦旬しと雖も咎无しとは、旬を過ぐれば災あるなり。孚有りて発若たりとは、信以て志を発するなり。其の沛を豊いにすとは、大事に可ならざるなり。其の右の肱を折るとは、終に用ゐるべからざるなり。其の蔀を豊いにすとは、位当らざればなり。日中に斗を見るとは、幽にして明らかならざるなり。其の夷主に遇ふ、吉とは、行くなり。六五の吉は、慶び有るなり。其の屋を豊いにすとは、天際に翔るなり。其の戸を窺へば、闃として其れ人无しとは、自ら蔵(かく)るるなり。
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史記 田敬仲完世家十四年、秦我が剛寿を撃つ。十九年、襄王卒し、子建立つ。王建立ちて六年、秦趙を攻む。斉・楚之を救ふ。秦計りて曰く、「斉・楚趙を救ふ。親しまば則ち兵を退け、親しまずんば遂に之を攻めん」と。趙食無く、粟を斉に請ふ。斉聴かず。周子曰く、「之を聴きて以て秦の兵を退くるに如かず。聴かずんば則ち秦の兵卻かず。是れ秦の計中りて斉・楚の計過つなり。且つ趙の斉・楚に於けるや、捍蔽なり。猶ほ歯の脣有るがごとし。脣亡ぶれば則ち歯寒し。今日趙を亡ぼさば、明日患ひ斉・楚に及ばん。且つ趙を救ふの務めは、宜しく漏甕を奉じて焦釜に沃ぐが若くすべし。夫れ趙を救ふは、高義なり。秦の兵を卻くるは、顕名なり。義もて亡国を救ひ、威もて彊秦の兵を卻く。此を為すを務めずして粟を愛しむを務むるは、国の為に計る者過てり」と。斉王聴かず。秦趙を長平に破ること四十余万、遂に邯鄲を囲む。十六年、秦周を滅ぼす。君王后卒す。二十三年、秦東郡を置く。二十八年、王入りて秦に朝す。秦王政酒を咸陽に置く。三十五年、秦韓を滅ぼす。三十七年、秦趙を滅ぼす。三十八年、燕荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王覚り、軻を殺す。明年、秦燕を破る。燕王亡げて遼東に走る。明年、秦魏を滅ぼす。秦の兵歴下に次る。四十二年、秦楚を滅ぼす。明年、代王嘉を虜にし、燕王喜を滅ぼす。四十四年、秦の兵斉を撃つ。斉王相后勝の計を聴き、戦はずして、兵を以て秦に降る。秦王建を虜にし、之を共に遷す。遂に斉を滅ぼして郡と為す。天下壱に秦に并せられ、秦王政号を立てて皇帝と為る。始め、君王后賢にして、秦に事ふること謹み、諸侯と信あり。斉も亦東のかた海上に辺す。秦日夜三晋・燕・楚を攻め、五国各々自ら秦より救ふ。故を以て王建立ちて四十余年兵を受けず。

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