宋名臣言行録 / 前集巻四・畢士安
端拱中詔王府官各上所為文帝問近臣曰文吾既知之其行孰優皆以公對帝喜曰是也以本官知制誥召為翰林學士大臣以張洎言帝曰洎視士安詞義踐厯固不減但履行逺在其下耳
新字:端拱中詔王府官各上所為文帝問近臣曰文吾既知之其行孰優皆以公対帝喜曰是也以本官知制誥召為翰林学士大臣以張洎言帝曰洎視士安詞義践厯固不減但履行遠在其下耳
書き下し
端拱中、詔して王府の官に各々為る所の文を上らしむ。帝、近臣に問いて曰く、文は吾れ既に之を知る。其の行は孰れか優れると。皆な公を以て對う。帝喜びて曰く、是なりと。本官を以て知制誥とし、召して翰林學士と為す。大臣、張洎を以て言う。帝曰く、洎は士安を視るに、詞義・踐厯固より減ぜず。但だ履行は逺く其の下に在るのみと。
現代語訳
端拱年間、詔が下って王府の官人にそれぞれ自分の書いた文を提出させた。帝は側近に尋ねた。「文のほうは私がもう知っている。その行いは誰が優れているか」。みな公の名を挙げて答えた。帝は喜んで言った。「そのとおりだ」。本官のまま知制誥とし、召して翰林学士とした。大臣が張洎の名を挙げて言った。帝は言った。「張洎は畢士安と比べて、文辞の中身も経歴も、たしかに劣らない。ただ行いのほうは、はるかにその下にある」。
解説
文章を提出させておいて、帝が尋ねたのは別のことでした。**文のほうは私がもう知っている、行いは誰が優れているか。**成果物は自分で読んで判断できる、判断できないほうを人に聞いています。推された張洎についての評も同じ形でした。文辞も経歴も劣らない、ただ行いのほうがはるかに下だ、と。二つの物差しを分けて持っている、という記録です。
この章句が説くこと
文は吾れ既に之を知る其の行は孰れか優れる詞義践厯固より減ぜず但だ履行は遠く其の下に在るのみ皆な公を以て対う評価成果行い
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