塩鉄論 / 相刺篇
大夫曰:「文學言治尚於唐、虞、言義高於秋天、有華言矣、未見其實也。昔魯穆公之時、公儀為相、子思、子柳為之卿、然北削於齊、以泗為境、南畏楚人、西賓秦國。孟軻居梁、兵折於齊、上將軍死、而太子虜、西敗於秦、地奪壤削、亡河內、河外。夫仲尼之門、七十子之徒、去父母、捐室家、負荷而隨孔子、不耕而學、亂乃愈滋。故玉屑滿篋、不為有寶、詩書負笈、不為有道。要在安國家、利人民、不茍繁文眾辭而已。」
新字:大夫曰:「文学言治尚於唐、虞、言義高於秋天、有華言矣、未見其実也。昔魯穆公之時、公儀為相、子思、子柳為之卿、然北削於斉、以泗為境、南畏楚人、西賓秦国。孟軻居梁、兵折於斉、上将軍死、而太子虜、西敗於秦、地奪壤削、亡河内、河外。夫仲尼之門、七十子之徒、去父母、捐室家、負荷而随孔子、不耕而学、乱乃愈滋。故玉屑満篋、不為有宝、詩書負笈、不為有道。要在安国家、利人民、不茍繁文眾辞而已。」
書き下し
大夫曰く、文學の言は、治は唐・虞より尚く、義は秋天より高しと言う、華言有りて、未だ其の實を見ざるなり。昔魯の穆公の時、公儀相と為り、子思・子柳之が卿と為る、然れども北のかた齊に削られ、泗を以て境と為し、南のかた楚人を畏れ、西のかた秦國に賓たり。孟軻梁に居り、兵を齊に折り、上將軍死し、太子虜となる、西のかた秦に敗れ、地奪われ壤削られ、河內・河外を亡う。夫れ仲尼の門、七十子の徒は、父母を去り、室家を捐て、負荷して孔子に隨い、耕さずして學ぶ、亂は乃ちいよいよ滋る。故に玉屑篋に滿つるも、寶有りと為さず、詩・書を笈に負うも、道有りと為さず。要は國家を安んじ、人民を利するに在り、茍くも繁文眾辭のみならざるなり。
現代語訳
大夫が言った。「文学の言葉は、治世は堯舜より高く、義は秋の空より高いと言う。華やかな言葉はあるが、その実質はまだ見ていない。昔、魯の穆公のとき、公儀休が宰相となり、子思と子柳が卿となった。それでも北は斉に領土を削られ泗水を境とし、南は楚人を恐れ、西は秦に従属した。孟軻が梁にいたときは、軍は斉に敗れ、上将軍は死に、太子は捕虜となった。西は秦に敗れ、土地を奪われ削られ、河内と河外を失った。そもそも孔子の門下、七十人の弟子たちは、父母を離れ家を捨て、荷を背負って孔子に従い、耕さずに学んだ。それで乱れはますますひどくなった。だから玉の屑が箱に満ちていても、宝を持っているとは言わない。『詩』『書』を笈に背負っていても、道を持っているとは言わない。肝心なのは国家を安んじ人民を利することにあって、飾った文章や多くの言葉ではない」
解説
この章句が説くこと
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『塩鉄論』論儒篇御史曰く、文學は仲尼を祖述し、其の德を稱誦して、以為えらく古より今に及ぶまで、未だ之れ有らざるなり、と。然れども孔子は道を魯・衛の間に修め、教化を洙・泗の上にするも、弟子は變を為さず、當世は治を為さず、魯國の削らるること滋々甚だし。齊の宣王は儒を褒め學を尊び、孟軻・淳于髡の徒は、上大夫の祿を受け、職に任ぜずして國事を論ず、蓋し齊の稷下の先生は千有餘人なり。此の時に當たりて、一の公孫弘のみに非ざるなり。弱燕齊を攻め、長驅して臨淄に至り、湣王遁逃して、莒に死して救う能わず、王建は秦に禽にせられ、之と俱に虜となりて存する能わず。此くの若くんば、儒者の國を安んじ君を尊ぶは、未だ始めより效有らざるなり。
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