宋名臣言行録 / 前集巻三・張詠
益不貢士幾二十年學校頹廢公察郡人張及李畋張逵者皆有學行為鄉里所服遂延奬加禮篤勉就舉後三人登科厯美官于是兩川學者知勸文風益振
新字:益不貢士幾二十年学校頹廃公察郡人張及李畋張逵者皆有学行為鄉里所服遂延奨加礼篤勉就舉後三人登科厯美官于是両川学者知勧文風益振
書き下し
益、士を貢せざること幾んど二十年。學校頹廢す。公、郡人の張及・李畋・張逵なる者を察するに、皆な學行有りて鄉里の服する所と為る。遂に延奬し禮を加え、篤く勉めて舉に就かしむ。後、三人科に登り、美官を歷る。是に於て兩川の學者、勸むるを知り、文風益々振るう。
現代語訳
益州が科挙に人を送らなくなって、もう二十年近くになっていた。学校は荒れ廃れていた。公は土地の人である張及・李畋・張逵という者を見て、みな学問と行いがあって郷里の人々に信服されていると知った。そこで招いて励まし礼を尽くし、篤く勧めて受験させた。後に三人は及第し、よい官を歴任した。そこで両川の学ぶ者は励むことを知り、文の気風はいよいよ盛んになった。
解説
二十年間、科挙の合格者が出ていない土地を立て直した条です。学校を建てたのでも、教師を招いたのでもありません。**土地の中から、すでに信服されている三人を見つけて、礼を尽くして受験させた。**三人が及第すると、両川の学ぶ者が励むようになりました。制度より先に、手本になる三人を通したわけです。前の条までの人物眼が、ここでは人材育成の手として使われています。
この章句が説くこと
益士を貢せざること幾んど二十年学校頹廃す皆な学行有りて鄉里の服する所と為る後三人科に登り美官を歴る両川の学者勧むるを知る育成手本気風
関連する章句
-
『宋名臣言行録』前集巻三・張詠公、清鑒有り、善く人物を臧否す。凡そ薦辟する所は皆な方亷恬退の士なり。嘗て曰く、彼の奔競を好む者は將に自ら之を得んとす。何ぞ吾が舉を假らんやと。
-
『宋名臣言行録』前集巻三・張詠轉運黄虞部、時才の士を舉ぐるを好む。公勸めて曰く、大凡そ人を舉ぐるは、須らく好んで退く者を舉ぐべし。好んで退けば則ち亷謹にして恥を知る。若し之を舉ぐれば、忠節愈々堅く、敗事有ること少なし。奔競する者を舉ぐる莫かれ。奔競すれば則ち能く事に曲がり諂媚して人の己を知るを求む。若し之を舉ぐれば、必ず才を矜り利を好み、累い舉官に及ぶこと故より少なからず。其の人既に奔競を解す。又た何ぞ須らく他を舉ぐべけんやと。
-
『宋名臣言行録』前集巻三・張詠公嘗て蜀地素より狹く、游手の者衆きを以てす。事寧きの後、生齒日々に繁し。稍や水旱に遇わば則ち民必ず食に艱まん。時に米、㪷に錢三十六に直る。乃ち諸邑の田税を按じ、其の價の如くし、歳に米六萬斛を折る。春に至りて城中の細民を籍し、口を計りて劵を給し、元の估を輸して之を糴わしむ。奏して永制と為す。今に逮ぶこと七十餘年。時に災饉有りて米甚だ貴しと雖も、益の民に餒色無き者は、公の賜なり。
-
『宋名臣言行録』前集巻二・李沆張詠嘗て人に謂いて曰く、吾が榜中、人を得ること最も多し。慎重にして雅望有るは李文靖に如くは無く、深沈にして徳有り天下を鎮服するは王公に如くは無く、面折庭爭し素より風采有るは㓂公に如くは無し。方面の寄に當たりては則ち詠敢えて辭せずと。
-
『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修嘉祐以後、朝廷名器を惜しむに務めて、人を進むるの路稍ミ狹し。公屢ミ建言す、館閣は材を育つるの地なり。材既に得難くして又た知り難くんば、則ち當に博く采りて多く之を蓄うべし。則ち傑然として出でて名臣と爲らん。餘も亦た佳士たるを失わずと。遂に二府に詔して各ミ五人を舉げしむ。
-
『宋名臣言行録』後集巻十四・陳襄先に詔有りて郡邑に學を興す。公遂に邑の富人に諭して、餘る所を出だして以て學舍を繕わしむ。學成りて邑の子弟をして焉に造らしむ。公爲に入學して講説して斁まず。士の遠方より来たる者、數百人に至る。部使者安刑部積始めて其の縣に至る。公即ち十事の民に便なる者を以て之に干す。安皆な之を行う。人其の賜を受く。