宋名臣言行録 / 前集巻二・王旦
真宗欲命王欽若作相公曰欽若遭逢陛下恩禮已隆且乞在樞宻院兩府亦均臣見祖宗朝未嘗有南方人當國雖古稱立賢無方然須賢士乃可臣為宰相不敢沮抑人此亦公議也上遂止後公罷欽若乃相出語人曰為王公遲却我十年作相
新字:真宗欲命王欽若作相公曰欽若遭逢陛下恩礼已隆且乞在枢宻院両府亦均臣見祖宗朝未嘗有南方人当国雖古称立賢無方然須賢士乃可臣為宰相不敢沮抑人此亦公議也上遂止後公罷欽若乃相出語人曰為王公遅却我十年作相
書き下し
真宗、王欽若に命じて相と作さんと欲す。公曰く、欽若は陛下に遭逢して恩禮已に隆し。且つ樞宻院に在らんことを乞う。兩府も亦た均し。臣見るに、祖宗の朝、未だ嘗て南方の人の國に當たる有らず。古に賢を立つるに方無しと稱すと雖も、然れども須らく賢士にして乃ち可なるべし。臣、宰相と為り、敢えて人を沮抑せず。此れ亦た公議なりと。上遂に止む。後、公罷めて欽若乃ち相たり。出でて人に語りて曰く、王公の為に却って我を十年遲らせて相と作さしむと。
現代語訳
真宗が王欽若に命じて宰相にしようとした。公は言った。「王欽若は陛下にめぐり会って恩と礼がすでに厚うございます。そのうえで枢密院にとどまることを願わせてはいかがでしょう。中書と枢密院は同格でもあります。臣が見ますに、祖宗の代には、南方の人が国政を担ったことがありません。古に『賢者を立てるのに出身は問わない』とは申しますが、それでも賢い士であってこそ可なのです。臣は宰相として、あえて人を抑えつけるつもりはありません。これもまた公の議です」。帝はそこで取りやめた。後に公が退いて、王欽若はようやく宰相になった。外に出て人に語った。「王公のおかげで、私は十年遅れて宰相になった」。
解説
反対の理由に、出身地を持ち出した条です。**祖宗の代には、南方の人が国政を担ったことがない。**古い言葉では出身は問わないとされているが、賢い士であってこそだ、と続けます。読んでいて引っかかる箇所で、この書はそれを削らずに残しました。王欽若は後に「王公のおかげで十年遅れた」と言っています。反対された側の言葉まで並べて置くのが、この書の記録のしかたです。
この章句が説くこと
祖宗の朝未だ嘗て南方の人の国に当たる有らず古に賢を立つるに方無しと称すと雖も然れども須らく賢士にして乃ち可なるべし王公の為に却って我を十年遅らせて相と作さしむ人事出身反対
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