宋名臣言行録 / 前集巻二・李沆
或薦梅詢可用真宗曰李沆嘗言其非君子時沆沒二十餘年矣歐陽文忠嘗問蘓子容云宰相沒二十年能使人主追信其言以何道子容言獨以無心耳軾謂陳執中俗吏耳特以至公猶能取信主上況如李公才識而濟之無心邪
新字:或薦梅詢可用真宗曰李沆嘗言其非君子時沆没二十余年矣欧陽文忠嘗問蘓子容云宰相没二十年能使人主追信其言以何道子容言独以無心耳軾謂陳執中俗吏耳特以至公猶能取信主上況如李公才識而済之無心邪
書き下し
或ひと梅詢の用う可きを薦む。真宗曰く、李沆嘗て其の君子に非ざるを言えりと。時に沆沒して二十餘年なり。歐陽文忠嘗て蘓子容に問いて云う、宰相沒して二十年、能く人主をして其の言を追信せしむるは、何の道を以てするかと。子容言う、獨り無心を以てするのみと。軾謂えらく、陳執中は俗吏のみ。特だ至公を以てして猶お信を主上に取る。況んや李公の才識の如くにして之に濟うに無心を以てするをや。
現代語訳
ある者が梅詢を用いるべきだと推薦した。真宗は言った。「李沆はかつて、彼は君子ではないと言った」。そのとき李沆が没して二十余年たっていた。欧陽脩がかつて蘇頌に尋ねた。「宰相が没して二十年、なお君主にその言葉を追って信じさせるのは、どういう道によるのか」。蘇頌は言った。「ただ私心が無いということだけによる」。蘇軾は言った。「陳執中はただの俗吏だ。それでもきわめて公正であることだけで、なお主上の信を得た。まして李公ほどの才識があって、そこに私心の無さが加わればなおさらだ」。
解説
死後二十年たっても、その一言が生きていた条です。欧陽脩が問い、蘇頌が答え、蘇軾が言い足すという三段の後日談が付いています。**宰相が没して二十年、なお君主にその言葉を追って信じさせるのは何によるか。ただ私心が無いということだけによる。**才でも地位でもなく、そこだけが理由に挙がりました。前の条で名指しした判断が、その人の死後も効いていた。名指しの重さと、それを支えるものが何かが、対で置かれています。
この章句が説くこと
宰相没して二十年能く人主をして其の言を追信せしむるは何の道を以てするか独り無心を以てするのみ李沆嘗て其の君子に非ざるを言えり信用無私評価
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