宋名臣言行録 / 前集巻一・張齊賢
太祖幸西都齊賢以布衣獻䇿太祖召至便坐令面陳其事文定以手畫地條陳十䇿一下并汾二富民三封建四敦孝悌五舉賢六太學七籍田八選良吏九懲姦十恤刑内四説稱㫖文定堅執其六説皆善太祖怒令武士拽出及車駕還京語太宗曰我幸西都唯得一張齊賢耳我不欲爵之以官異時汝可收之為相至太宗即位放進士榜決欲置于髙等而有司偶失掄選在第三甲之末太宗不悦及注官有㫖一榜盡與京官通判文定釋褐將作監丞通判衡州不十年果為相
新字:太祖幸西都斉賢以布衣献策太祖召至便坐令面陳其事文定以手画地条陳十策一下并汾二富民三封建四敦孝悌五舉賢六太学七籍田八選良吏九懲姦十恤刑内四説称旨文定堅執其六説皆善太祖怒令武士拽出及車駕還京語太宗曰我幸西都唯得一張斉賢耳我不欲爵之以官異時汝可収之為相至太宗即位放進士榜決欲置于高等而有司偶失掄選在第三甲之末太宗不悦及注官有旨一榜尽与京官通判文定釈褐将作監丞通判衡州不十年果為相
書き下し
太祖西都に幸す。齊賢布衣を以て䇿を獻ず。太祖召して便坐に至らしめ、面のあたり其の事を陳べしむ。文定手を以て地に畫し、十䇿を條陳す。一に并汾を下す、二に民を富ます、三に封建、四に孝悌を敦くす、五に賢を舉ぐ、六に太學、七に籍田、八に良吏を選ぶ、九に姦を懲らす、十に刑を恤む。内四説㫖に稱う。文定堅く執りて其の六説も皆な善しとす。太祖怒りて武士をして拽き出ださしむ。車駕京に還るに及び、太宗に語りて曰く、我れ西都に幸し、唯だ一の張齊賢を得たるのみ。我れ之を爵するに官を以てせんと欲せず。異時、汝之を收めて相と為す可しと。太宗即位して進士の榜を放つに至り、決して髙等に置かんと欲す。而るに有司偶ま掄選を失し、第三甲の末に在り。太宗悦ばず。官に注するに及び、㫖有り、一榜盡く京官・通判を與う。文定褐を釋きて將作監丞・通判衡州となる。十年ならずして果たして相と為る。
現代語訳
太祖が西都(洛陽)に行幸した。張斉賢は無官の身で策を献じた。太祖は召して控えの間に来させ、面前でそのことを述べさせた。文定公は手で地に図を描きながら、十の策を箇条にして述べた。第一に并州・汾州を下すこと、第二に民を富ませること、第三に封建、第四に孝悌を篤くすること、第五に賢者を挙げること、第六に太学、第七に籍田、第八に良い官吏を選ぶこと、第九に不正を懲らすこと、第十に刑を慎むこと。そのうち四つが太祖の意にかなった。文定公は残る六つもみな善い策だと固く言い張った。太祖は怒って武士に引きずり出させた。御車が都に帰ると、太宗に語った。「私は西都に行って、ただ一人の張斉賢を得ただけだ。私はこの者に官爵を与えるつもりはない。いつか、おまえがこれを取り立てて宰相にするがよい」。太宗が即位して進士の合格者を発表したとき、決して上位に置こうと考えていた。ところが担当の役人がたまたま選び方を誤り、第三甲の末尾になっていた。太宗は喜ばなかった。任官のとき、詔があって、その榜の全員に京官と通判を与えた。文定公は初任で将作監丞・衡州通判となった。十年たたないうちに、はたして宰相となった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公二十六年 無競惟人「大尹、其の君を惑蠱して、以て公室を陵虐す。我に與する者は、君を救ふ者なり」と。衆曰く、「之に與せん」と。大尹、徇へて曰く、「戴氏・皇氏、將に公室に不利ならんとす。我に與する者は、富まざるを憂ふること無からん」と。衆曰く、「別無し」と。戴氏・皇氏、公を伐たんと欲す。樂得曰く、「不可なり。彼は公を陵ぐを以て罪有り。我、公を伐たば、則ち焉より甚だし」と。國人をして大尹に施せしむ。大尹、啟を奉じて以て楚に奔る。乃ち得を立つ。司城、上卿と為る。盟ひて曰く、「三族、政を共にし、相害すること無かれ」と。衛の出公、城鉏より、弓を以て子贛に問はしめ、且つ曰く、「吾其れ入らんか」と。子贛、稽首して弓を受け、對へて曰く、「臣識らざるなり」と。使者に私して曰く、「昔、成公、陳に孫る。甯武子・孫莊子、宛濮の盟を為して、君入る。獻公、衛より齊に孫る。子鮮・子展、夷儀の盟を為して、君入る。今、君再び孫に在り。内に獻の親を聞かず、外に成の卿を聞かず。則ち賜、由りて入る所を識らざるなり。詩に曰く、『無競惟人、四方其れ之に順ふ』と。若し其の人を得ば、四方以て主と為さん。而るに國に於て何か有らん」と。
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『晏子春秋』外篇上・有獻書譖晏子退耕而國不治復召晏子晏子景公に相たり。其の人を論ずるや、賢を見ては之を進め、君の欲する所に同じからず。不善を見ては則ち廃し、君の愛する所を辟けず。己を行いて私無く、直言して諱む無し。書を納むる者有りて、曰く、「廃置君前に周からざる、之を専と謂い、言を出して君前に諱まざる、之を易と謂う。専易の行い存すれば、則ち君臣の道廃す。吾晏子の忠臣為るを知らず」と。公以て然りと為す。晏子朝に入るに、公の色説ばず。故に晏子帰り、載を備え、人をして辞せしめて曰く、「嬰は故より老悖にして能無し。敢えて壮者の事に服する毋し」と。辞して臣たらず、退きて窮処し、東のかた海浜に耕し、堂下に藜藿生じ、門外に荊棘生ず。七年、燕・魯分争し、百姓惛乱して、家に積む無し。公自ら国を治め、権は諸侯に軽く、身は高・国に弱し。公恐れ、復た晏子を召す。晏子至るに、公は一たび七年の禄を帰し、而して家に蔵する無し。晏子立つに、諸侯其の威を忌み、高・国其の政に服し、燕・魯職を貢し、小国時に朝す。晏子没して後に衰う。
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『徂徠先生答問書』卷中されば人々如此心懸候故、見え兼るもことわりにて候。足下も御先祖様の時代の事御聞可被成候。今の世より見候へば、其時分に名を申候能人と申候は皆疵物にて候。是別の子細に無御座候。其時分はぬり隠し申候事無御座候故、疵見え申候。疵見え申候得ば、人才は見え申候。今時も世上の悪俗に染不申候人は疵多く御座候間、疵物にならでは人才はなき物と被思召、疵物の内にて御ゑらび可被成候。疵もなく才も長じ候人を御尋候はゞ、最前申候御物ずきの注文と申物にて、疵なき人は郷原か巧言令色か扨は庸人と可被思召候。以上。
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