宋名臣言行録 / 前集巻一・竇儀
儼尤善推步星厯與盧多遜楊徽之同在諌垣謂二公曰丁夘嵗五星當聚奎奎主文明又在魯分自此天下始太平二拾遺必見之老夫不預也至乾徳間五星果聚於奎
新字:儼尤善推歩星厯与盧多遜楊徽之同在諌垣謂二公曰丁夘歳五星当聚奎奎主文明又在魯分自此天下始太平二拾遺必見之老夫不預也至乾徳間五星果聚於奎
書き下し
儼、尤も推步星厯に善し。盧多遜・楊徽之と同に諌垣に在り。二公に謂いて曰く、丁夘の歳、五星當に奎に聚まるべし。奎は文明を主る。又た魯の分に在り。此れより天下始めて太平ならん。二拾遺必ず之を見ん。老夫は預らざるなりと。乾徳の間に至り、五星果たして奎に聚まる。
現代語訳
竇儼はとりわけ天体の運行と暦の計算に長けていた。盧多遜・楊徽之とともに諫官の役所にいた。二人に言った。「丁卯の年、五つの星が奎宿に集まるはずだ。奎は文の明らかなることを司る。しかも魯の分野に当たる。これから天下は初めて太平になるだろう。二人の拾遺どのはきっとそれを見られる。老いた私は与れない」。乾徳年間になって、五星ははたして奎宿に集まった。
解説
星の集まる年を計算で言い当てた条です。占いではなく推歩、つまり暦の計算です。面白いのは自分の分だけ外していることでした。**二人はきっとそれを見られる、老いた私は与れない。**見通しに自分の死期まで織り込んでいます。この後の条で盧多遜が崖州へ流されることを思うと、見届けた側が幸せだったとも限りません。編者は星の当たったことだけを記して、そこには触れていません。
この章句が説くこと
丁夘の歳五星当に奎に聚まるべし二拾遺必ず之を見ん老夫は預らざるなり乾徳の間に至り五星果たして奎に聚まる見通し計算寿命
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