宋名臣言行録 / 前集巻一・趙普
太祖即位之初數出㣲行以偵伺人情或過功臣家不可測普每退朝不敢脱衣冠一日大雪向夜普謂帝不復出矣乆之聞叩門聲普亟出帝立風雪中普惶懼迎拜帝曰巳約晉王矣已而太宗至共於普堂中設重䄄地坐熾炭燒肉普妻行酒帝以嫂呼之普從容問曰夜乆寒甚陛下何以出帝曰吾睡不能著一榻之外皆它人家也故來見卿普曰陛下小天下耶南征北伐今其時也願聞成算所向帝曰吾欲下太原普黙然乆之曰非臣所知也帝問其故普曰太原當西北二邉使一舉而下則二邉之患我獨當之何不姑留以俟削平諸國則彈丸黒子之地將無所逃帝笑曰吾意正如此特試卿耳遂定下江南之議帝曰王全斌平蜀多殺人吾今思之猶耿耿不可用也普于是薦曹彬為將以潘美副之
新字:太祖即位之初数出微行以偵伺人情或過功臣家不可測普毎退朝不敢脱衣冠一日大雪向夜普謂帝不復出矣久之聞叩門声普亟出帝立風雪中普惶懼迎拝帝曰巳約晋王矣已而太宗至共於普堂中設重䄄地坐熾炭焼肉普妻行酒帝以嫂呼之普従容問曰夜久寒甚陛下何以出帝曰吾睡不能著一榻之外皆它人家也故来見卿普曰陛下小天下耶南征北伐今其時也願聞成算所向帝曰吾欲下太原普黙然久之曰非臣所知也帝問其故普曰太原当西北二邉使一舉而下則二邉之患我独当之何不姑留以俟削平諸国則弾丸黒子之地将無所逃帝笑曰吾意正如此特試卿耳遂定下江南之議帝曰王全斌平蜀多殺人吾今思之猶耿耿不可用也普于是薦曹彬為将以潘美副之
書き下し
太祖即位の初め、數々㣲行して以て人情を偵伺す。或いは功臣の家を過ぐること測る可からず。普、退朝する毎に敢えて衣冠を脱がず。一日大雪、夜に向かう。普、帝復た出でざらんと謂う。乆しくして叩門の聲を聞く。普亟かに出づれば、帝風雪の中に立つ。普惶懼して迎え拜す。帝曰く、巳に晉王と約せりと。已にして太宗至る。共に普の堂中に於て重䄄を設け、地に坐し、炭を熾んにして肉を燒く。普の妻酒を行る。帝、嫂を以て之を呼ぶ。普從容として問いて曰く、夜乆しく寒甚だし。陛下何を以て出づるや。帝曰く、吾れ睡りて著く能わず。一榻の外は皆な它人の家なればなり。故に來りて卿を見ると。普曰く、陛下天下を小とするや。南征北伐、今其の時なり。願わくは成算の向かう所を聞かん。帝曰く、吾れ太原を下さんと欲すと。普黙然たること乆しくして曰く、臣の知る所に非ざるなりと。帝其の故を問う。普曰く、太原は西北二邉に當たる。一舉して之を下さしめば、則ち二邉の患い、我れ獨り之に當たらん。何ぞ姑く留めて、以て諸國を削平するを俟たざる。則ち彈丸黒子の地、將に逃るる所無からんとす。帝笑いて曰く、吾が意正に此くの如し。特だ卿を試みるのみと。遂に江南を下すの議を定む。帝曰く、王全斌蜀を平らげて人を殺すこと多し。吾れ今之を思うに猶お耿耿たり。用う可からざるなりと。普是に於て曹彬を薦めて將と為し、潘美を以て之に副えしむ。
現代語訳
太祖は即位したはじめのころ、たびたび微行して人々の様子をうかがった。功臣の家に立ち寄ることもあり、いつ来るか測りがたかった。趙普は朝廷から退くたびに、衣冠を脱ごうとしなかった。ある日、大雪が降り、夜になった。趙普は、帝はもう出てこられまいと思った。しばらくして門を叩く音が聞こえた。趙普が急いで出ると、帝が風雪の中に立っている。趙普は恐れ入って迎え拝した。帝は「すでに晋王と約束してある」と言った。ほどなく太宗が来た。趙普の広間に重ねた敷物を設け、地に坐り、炭をおこして肉を焼いた。趙普の妻が酒をついだ。帝は彼女を「嫂」と呼んだ。趙普は落ち着いて尋ねた。「夜も更けて寒さも厳しいのに、陛下はなぜお出ましになったのですか」。帝は言った。「私は眠っても寝つけない。寝台の外はみな他人の家だからだ。だから卿に会いに来た」。趙普は言った。「陛下は天下を小さいとお思いですか。南を征し北を伐つのは、いまがその時です。どこへ向かうお考えか、うかがいたい」。帝は「私は太原を下したい」と言った。趙普はしばらく黙ってから言った。「臣の知るところではありません」。帝がその理由を問うと、趙普は言った。「太原は西と北の二つの辺境に当たっています。一挙にこれを下せば、二つの辺境の患いを我々だけで引き受けることになります。しばらく残しておいて、諸国を平らげ終えるのを待ってはいかがですか。そうすれば弾丸や黒子ほどの土地は、逃げ場が無くなります」。帝は笑って言った。「私の考えもまさにその通りだ。ただ卿を試しただけだ」。こうして江南を下す議が定まった。帝は言った。「王全斌は蜀を平らげたとき人を多く殺した。私はいま思い出しても心にかかる。用いるべきではない」。趙普はそこで曹彬を推挙して将とし、潘美をその副えとした。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』桓公五年 繻葛の戦い五年春正月、甲戌、己丑、陳侯鮑卒す、再び赴ぐるなり。是に於いて陳亂る。文公の子佗大子免を殺して之に代はる。公疾病にして亂作る。國人分散す、故に再び赴ぐ。夏、齊侯・鄭伯紀に朝す、以って之を襲はんと欲す。紀人之を知る。王鄭伯の政を奪ふ。鄭伯朝せず。秋、王諸侯を以って鄭を伐つ。鄭伯之を禦ぐ。王中軍と為る。虢公林父右軍に將たり、蔡人・衛人焉に屬す。周公黑肩左軍に將たり、陳人焉に屬す。鄭の子元左拒と為りて、以って蔡人・衛人に當たり、右拒と為りて、以って陳人に當たらんことを請ふ。曰く、「陳亂れて、民鬬心有る莫し。若し先づ之を犯さば、必ず奔らん。王の卒之を顧みば、必ず亂れん。蔡・衛は枝へず、固より將に先づ奔らんとす。既にして王の卒に萃まらば、以って事を集す可し」と。之に從ふ。曼伯右拒と為り、祭仲足左拒と為り、原繁・高渠彌中軍を以って公を奉じ、魚麗の陳を為す。偏を先にし伍を後にし、伍承けて彌縫す。繻葛に戰ふ。二拒に命じて曰く、「旝動かば鼓せよ」と。蔡・衛・陳皆奔る。王の卒亂る。鄭の師合して以って之を攻む。王の卒大いに敗る。祝聃王を射て肩に中つ。王も亦た能く軍す。祝聃之に從はんと請ふ。公曰く、「君子は多く人に上たらんことを欲せず。況や敢へて天子を陵がんや。苟も自ら救ひて、社稷隕つること無くんば、多なり」と。夜、鄭伯祭足をして王を勞ひ、且つ左右を問はしむ。仍叔の子來聘す、弱なればなり。秋、大いに雩す。書するは、時ならざればなり。凡そ祀は、啟蟄にして郊し、龍見れて雩し、始めて殺して嘗し、閉蟄にして烝す。過ぐれば則ち書す。冬、淳于公曹に如く。其の國の危ふきを度り、遂に復らず。
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史記 春申君列伝此れより観れば、楚国は援なり、隣国は敵なり。詩に云ふ『趯趯たる毚免、犬に遇ひてこれを獲らる。他人心有り、余これを忖度す』と。今、王、中道にして韓・魏の王を善くするを信ず、此れ正に呉の越を信ずるなり。臣これを聞く、敵は仮すべからず、時は失ふべからずと。臣恐る、韓・魏は辞を卑くして患ひを除き、実は大国を欺かんと欲するを。何となれば則ち、王は韓・魏に重世の徳無くして、累世の怨み有り。夫れ韓・魏の父子兄弟の踵を接して秦に死する者は将に十世ならんとす。本国残はれ、社稷壊れ、宗廟毀たる。腹を刳き腸を絶ち、頸を折り頤を摺き、首身分離し、骸骨を草沢に暴し、頭顱僵仆して、境に相望む。父子老弱の脰を系ぎ手を束ねて群虜と為る者は、路に相及ぶ。鬼神孤傷して、血食する所無し。人民は生を聊んぜず、族類離散し、流亡して仆妾と為る者、海内に盈満す。故に韓・魏の亡びざるは、秦の社稷の憂ひなり。今、王これに資して与に楚を攻む、また過ちならずや。且つ王の楚を攻むるに将に悪くにか兵を出ださんとする。王将に路を仇讎の韓・魏に借らんとするか。兵出づるの日にして王その返らざるを憂へん、是れ王は兵を以て仇讎の韓・魏に資するなり。王若し路を仇讎の韓・魏に借らずんば、必ず随水の右壌を攻めん。随水の右壌は、此れ皆広川大水、山林谿谷にして、食はざるの地なり、王これを有すと雖も、地を得たりと為さず。是れ王は楚を毀るの名有りて地を得るの実無きなり。且つ王の楚を攻むるの日、四国必ず悉く兵を起こして以て王に応ぜん。秦・楚の兵構へて離れず、魏氏将に出でて留・方与・銍・湖陵・碭・蕭・相を攻めんとし、故宋必ず尽きん。斉人南面して楚を攻め、泗上必ず挙げられん。此れ皆平原四達、膏腴の地なり、而して独り攻めしむ。王、楚を破りて以て韓・魏を中国に肥やして斉を勁くせん。
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史記 項羽本紀此の時に当たりて、彭越数(しばしば)梁の地に反し、楚の糧食を絶つ、項王之を患ふ。高俎を為り、太公を其の上に置き、漢王に告げて曰く、「今急ぎ下らずんば、吾太公を烹ん。」と。漢王曰く、「吾項羽と倶に北面して命を懐王に受け、曰く『約して兄弟と為る』と、吾が翁は即ち若(なんぢ)が翁なり、必ず而(なんぢ)が翁を烹んと欲せば、則ち幸ひに我に一桮の羹を分かて。」と。項王怒り、之を殺さんと欲す。項伯曰く、「天下の事未だ知るべからず、且つ天下を為むる者は家を顧みず、之を殺すと雖も益無く、秪(ただ)禍を益すのみ。」と。項王之に従ふ。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転漕に罷る。項王漢王に謂ひて曰く、「天下匈匈たること数歳なる者は、徒だ吾が両人を以てのみ、願はくは漢王と挑戦して雌雄を決せん、徒らに天下の民の父子を苦しむるを為す毋からん。」と。漢王笑ひて謝して曰く、「吾寧ろ智を鬬はすも、力を鬬はす能はず。」と。項王壮士をして出でて挑戦せしむ。漢に騎射を善くする者楼煩有り、楚挑戦すること三合、楼煩輒ち之を射殺す。項王大いに怒り、乃ち自ら甲を被り戟を持ちて挑戦す。楼煩之を射んと欲す、項王目を瞋らして之を叱す、楼煩目敢へて視ず、手敢へて発せず、遂に走りて還りて壁に入り、敢へて復た出でず。漢王人をして間かに之を問はしむ、乃ち項王なり。漢王大いに驚く。是に於て項王乃ち漢王に即きて相与に広武の間に臨みて語る。漢王之を数(せ)む、項王怒り、一戦せんと欲す。漢王聴かず、項王伏弩もて漢王を射中つ。漢王傷つき、走りて成皋に入る。項王淮陰侯已に河北を挙げ、斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、乃ち龍且をして往きて之を撃たしむ。淮陰侯与に戦ひ、騎将灌嬰之を撃ち、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。韓信因りて自ら立ちて斉王と為る。項王龍且の軍破るると聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて淮陰侯に説かしむ。淮陰侯聴かず。是の時、彭越復た反し、梁の地を下し、楚の糧を絶つ。
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史記 呉王濞列伝呉の少将桓将軍王に説きて曰く、「呉は歩兵多し。歩兵は険に利あり。漢は車騎多し。車騎は平地に利あり。願はくは大王過ぐる所の城邑下らざれば、直ちに棄て去り、疾く西して雒陽の武庫に拠り、敖倉の粟を食み、山河の険に阻りて以て諸侯に令せよ。関に入る毋しと雖も、天下固より已に定まらん。即し大王徐行して、城邑を留め下さば、漢軍の車騎至りて、梁楚の郊に馳せ入らば、事敗れん」と。呉王諸老将に問ふ。老将曰く、「此れ少年の鋒を推すの計は可なるのみ。安くんぞ大慮を知らんや」と。是に於て王桓将軍の計を用ひず。呉王専ら其の兵を并せ将ゐ、未だ淮を度らざるに、諸賓客皆将・校尉・候・
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史記 黥布列伝山東は漢の有に非ざるなり。中計に出でば、勝敗の数未だ知るべからざるなり。下計に出でば、陛下枕を安んじて臥せん」と。上曰く、「何をか上計と謂ふ」と。令尹対へて曰く、「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、斉を并せ魯を取り、檄を燕・趙に伝へ、固く其の所を守らば、山東は漢の有に非ざるなり」と。「何をか中計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、韓を并せ魏を取り、敖庾の粟に拠り、成皋の口を塞がば、勝敗の数未だ知るべからざるなり」と。「何をか下計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた下蔡を取り、重を越に帰し、身は長沙に帰せば、陛下枕を安んじて臥し、漢事無からん」と。上曰く、「是の計将に安くにか出でんとす」と。令尹対へて曰く、「下計に出でん」と。上曰く、「何の謂ぞ上中計を廃して下計に出づるとは」と。令尹曰く、「布は故の麗山の徒なり。自ら万乗の主に致る。此れ皆身の為にして、後に百姓万世の為に慮ることを顧みざる者なり。故に下計に出づと曰ふ」と。上曰く、「善し」と。薛公に千戸を封ず。乃ち皇子長を立てて淮南王と為す。上遂に兵を発し、自ら将として東のかた布を撃つ。布の初めて反するや、其の将に謂ひて曰く、「上老いたり、兵を厭ふ。必ず来たる能はず。諸将をして使はしめん。諸将は独り淮陰・彭越を患ふるのみ。今皆已に死せり。余は畏るるに足らざるなり」と。故に遂に反す。果して薛公の之を籌るが如く、
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