孔子家語 / 曲禮子夏問
孔子適衛,遇舊館人之喪,入而哭之哀。出使子貢脫驂以贈之。子貢曰:『所於識之喪,不能有所贈,贈於舊館,不已多乎?」孔子曰:「吾向入哭之,遇一哀而出涕,吾惡夫涕而無以將之,小子行焉。」
新字:孔子適衛,遇旧館人之喪,入而哭之哀。出使子貢脱驂以贈之。子貢曰:『所於識之喪,不能有所贈,贈於旧館,不已多乎?」孔子曰:「吾向入哭之,遇一哀而出涕,吾悪夫涕而無以将之,小子行焉。」
書き下し
孔子、衛に適き、旧館人の喪に遇い、入りて之を哭して哀しむ。出でて子貢をして驂を脱がしめて以て之に贈らしむ。子貢曰く、「識る所の喪に於て、贈る所有る能わず、旧館に贈るは、已に多からずや」と。孔子曰く、「吾向に入りて之を哭す、一哀に遇いて涕を出だす、吾夫の涕して以て之を将うる無きを悪む、小子行え」と。
現代語訳
孔子が衛の国に赴いた際、かつて自分が宿泊した宿の主人の喪に出くわし、家に入って心から哀しんで泣いた。外に出ると、子貢に馬車の添え馬を外させて、それを香典として贈らせた。子貢は「面識のある程度の人の喪に対して、通常は贈り物をすることはありません。かつての宿の主人に贈るというのは、少し過分ではありませんか」と尋ねた。孔子は答えた。「私は先ほど中に入って彼のために哭いた。悲しみがこみ上げて涙が出た。私は涙を流しながら、それに何も添えて示すものがないという状態を嫌うのだ。さあ、贈り物を届けなさい。」
解説
単なる知人程度の関係であっても、実際に心からの悲しみがこみ上げて涙を流した以上、その真心を形として表さないままでいることを孔子は良しとしませんでした。子貢は身分や関係の程度から見て贈り物が過分ではないかと指摘しましたが、孔子は、あふれ出た情には相応の形を伴わせるべきだという考えから、乗っていた馬車の添え馬を贈り物として届けさせています。規定上の身分や関係の程度よりも、その瞬間に湧き上がった真心を優先して行動する孔子の姿は、礼の規定と実際の情の動きとの間で、時に情を優先すべき場合があることを示しています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
旧館人子貢添え馬涙と贈り物
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