孔子家語 / 曲禮子夏問
子貢問居父母喪。孔子曰:「敬為上,哀次之,瘠為下,顏色稱情,戚容稱服。」曰:「請問居兄弟之喪。」孔子曰:「則存乎書筴已。」
新字:子貢問居父母喪。孔子曰:「敬為上,哀次之,瘠為下,顔色称情,戚容称服。」曰:「請問居兄弟之喪。」孔子曰:「則存乎書筴已。」
書き下し
子貢、父母の喪に居るを問う。孔子曰く、「敬を上と為し、哀之に次ぎ、瘠を下と為す、顔色は情に称い、戚容は服に称う」と。曰く、「請う問う、兄弟の喪に居るを」と。孔子曰く、「則ち書筴に存するのみ」と。
現代語訳
子貢が父母の喪に服する際の心構えについて尋ねた。孔子は答えた。「敬意を尽くすことを最上とし、悲しみを尽くすことをその次とし、痩せ衰えるほど身をやつすことを最下とする。表情はその時々の心情にふさわしくあるべきであり、悲しみの様子は身にまとう喪服の格にふさわしくあるべきだ。」子貢はさらに「では兄弟の喪に服する場合はいかがでしょうか」と尋ねた。孔子は答えた。「それは記された書物の規定にそのまま従えばよいだけのことだ。」
解説
父母の喪という最も重い喪においては、単なる悲しみの深さや身をやつすことよりも、まず「敬」の心を第一に置くべきだと孔子は説いています。悲しみのあまり身を痛めつけることは最も低く評価されており、外に表れる表情や態度が、その時々の心情や着ている喪服の格にふさわしく調和していることが重視されています。一方、それより関係が遠い兄弟の喪については、細かな心構えを説くまでもなく、すでに定められた規定に従えば十分だとしており、喪の対象の重さに応じて説明の重点も変化していることが分かります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
子貢父母の喪敬と哀兄弟の喪
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