孔子家語 / 正論解
齊陳恒弒其簡公。孔子聞之,三日沐浴而適朝,告於哀公曰:「陳恒弒其君,請伐之。」公弗許,三請。公曰:「魯為齊弱久矣。子之伐也,將若之何?」對曰:「陳恒弒其君,民之不與者半。以魯之眾,加齊之半,可克也。」公曰:「子告季氏。」孔子辭,退而告人曰:「以吾從大夫之後,吾不敢不告也。」
新字:斉陳恒弒其簡公。孔子聞之,三日沐浴而適朝,告於哀公曰:「陳恒弒其君,請伐之。」公弗許,三請。公曰:「魯為斉弱久矣。子之伐也,将若之何?」対曰:「陳恒弒其君,民之不与者半。以魯之衆,加斉之半,可克也。」公曰:「子告季氏。」孔子辞,退而告人曰:「以吾従大夫之後,吾不敢不告也。」
書き下し
斉の陳恒、其の簡公を弑す。孔子之を聞き、三日沐浴して朝に適き、哀公に告げて曰く、「陳恒其の君を弑せり、請う之を伐たん。」公許さず、三たび請う。公曰く、「魯の斉に弱きこと久し。子の伐つや、将た之を若何にせん。」対えて曰く、「陳恒其の君を弑せり、民の与せざる者半ばなり。魯の衆を以て、斉の半ばに加うれば、克つべし。」公曰く、「子季氏に告げよ。」孔子辞し、退きて人に告げて曰く、「吾大夫の後に従うを以て、吾敢えて告げざるべからざるなり。」
現代語訳
斉の陳恒がその主君簡公を弑逆した。孔子はこれを聞くと、三日間斎戒沐浴してから朝廷に出向き、哀公に申し上げた、「陳恒がその主君を弑逆しました。どうかこれを討伐なさってください。」哀公は許可しなかった。孔子は三度願い出た。哀公は言った、「魯が斉に対して弱いことは久しい。あなたが討伐せよと言うが、いったいどうするつもりか。」孔子は答えた、「陳恒がその主君を弑逆したことで、斉の民のうち味方しない者が半数もおります。魯国の兵をもって、斉の民の半数を味方につければ、勝つことができましょう。」哀公は言った、「あなたは季氏に告げなさい。」孔子は辞退し、退出すると人に告げて言った、「私はかつて大夫の末席に連なっていた身であるから、あえて君主にこのことを告げないわけにはいかなかったのだ。」
解説

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論語・憲問篇陳成子、簡公を弑す。孔子、沐浴して朝し、哀公に告げて曰く、「陳恆、其の君を弑せり。請う之を討たん。」公曰く、「夫の三子に告げよ。」孔子曰く、「吾大夫の後に従うを以て、敢えて告げずんばあらざるなり。君曰く、『夫の三子に告げよ』と。」三子に之きて告ぐ。不可なり。孔子曰く、「吾大夫の後に従うを以て、敢えて告げずんばあらざるなり。」
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『春秋左氏伝』哀公十四年 陳恒、簡公を弑す六月、左師巢をして之を伐たしむ。大夫を質として以て入らんと欲す。能はず。亦た曹に入りて質を取らんとす。魋曰く、「不可なり。既に君に事ふる能はず、又罪を民に得ば、將に之を若何せん」と。乃ち之を舍(ゆる)す。民遂に之に叛く。向魋衛に奔る。向巢來奔す。宋公之を止めしめて曰く、「寡人子と言有り。以て向氏の祀を絕つ可からず」と。辭して曰く、「臣の罪大なり。盡く桓氏を滅ぼすも可なり。若し先臣の故を以て、後有らしめば、君の惠なり。臣の若きは則ち以て入る可からず」と。司馬牛其の邑と珪とを致して、齊に適く。向魋衛の地に出づ。公文氏之を攻め、夏后氏の璜を求む。之に他の玉を與へて、齊に奔る。陳成子次卿と為さしむ。司馬牛又其の邑を致して、吳に適く。吳人之を惡みて反る。趙簡子之を召き、陳成子も亦た之を召く。魯の郭門の外に卒す。阬氏諸を丘輿に葬る。甲午、齊の陳恆其の君壬を舒州に弒す。孔丘三日齊(ものいみ)して、齊を伐たんことを請ふこと三たび。公曰く、「魯の齊の為に弱めらるること久し。子の之を伐つ、將に之を若何せん」と。對へて曰く、「陳恆其の君を弒す。民の與せざる者半ばなり。魯の眾を以て、齊の半ばに加へば、克つ可きなり」と。公曰く、「子季孫に告げよ」と。孔子辭す。退きて人に告げて曰く、「吾大夫の後に從ふを以てなり。故に敢へて言はずんばあらず」と。初め孟孺子洩將に馬を成に圉(か)はんとす。成の宰公孫宿受けずして曰く、「孟孫成の病なるが為に、焉に馬を圉はず」と。孺子怒り、成を襲ふ。從者入るを得ず。乃ち反る。成の有司使ひす。孺子之を鞭うつ。秋八月辛丑、孟懿子卒す。成人喪に奔る。內(い)れず。袒免して衢に哭し、共を聽かんとす。許さず。懼れて歸らず。
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『洗心洞箚記』卷上・第百七十八條吾請ふ又之を説かん。趙高の君無きは、魯の三子の君無きに孰与ぞ。陳恒其の君を弑するに当りて、孔子沐浴して君に朝して曰く、「陳恒其の君を弑す、請ふ之を討たん」と。君の可かざるに因りて、又三子に之きて告ぐ。三子可かずと雖も、然れども孔子を害すること能はず、却つて孔子の告ぐるに因りて、其の君無きの心を消沮す。則ち孔子は斉を討つの事を遂げずと雖も、而して三子の心を誅すること厳なり。是に由りて之を観れば、則ち孔子の告ぐるは、一時に発するが如しと雖も、其の平生慎独して心を欺かざるの工夫、少しも間断有ること無し。故に其の浩然の気、天地の間に塞がる。蘇子の所謂、「卒然として之に遇へば、王公も其の貴を失ひ、晋楚も其の富を失ひ、良平も其の智を失ひ、賁育も其の勇を失ひ、儀秦も其の弁を失ふ」者なり。是の故に三子焉んぞ其の害を施すを得んや。若し常人諸を三子に告ぐれば、則ち陽に受けて陰に之を誅すること、又猶趙高の鹿と言ふ者を殺すがごとく然り。故に孔子をして鹿馬の事に処らしめば、径ちに鹿と言ふと雖も、趙高独り之を害すること能はざるのみならず、却つて其の心を戦かせ、其の謀を沮まん。是れ決して余人の及ぶ所に非ざるなり。
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説苑・正諫斉の景公(簡公)に臣有り、諸御鞅と曰う。簡公を諫めて曰わく、「田常と宰予、此の二人は甚だ相い憎む。臣其の相い攻めんことを恐る。相い攻むれば叛くと雖も之を危うくす、不可なり。願わくは君一人を去れ」と。簡公曰わく、「細人の敢えて議する所に非ざるなり」と。居ること幾何も無く、田常果たして宰予を庭に攻め、簡公を朝に賊す。簡公喟然として太息して曰わく、「余鞅の言を用いずして以て此の患いに至れり。故に忠臣の言、察せざるべからざるなり」と。
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史記 魯周公世家孟氏、城を堕つるを肯ぜず。之を伐つも、克たずして止む。季桓子、斉の女楽を受く。孔子去る。十五年、定公卒し、子の将立つ。是れを哀公と為す。哀公の五年、斉の景公卒す。六年、斉の田乞、其の君孺子を弑す。七年、呉王夫差彊く、斉を伐ちて繒に至り、百牢を魯に徴す。季康子、子貢をして呉王及び太宰嚭に説かしめ、礼を以て之を詘せしむ。呉王曰く、「我は文身なり、礼を責むるに足らず」と。乃ち止む。呉、鄒の為に魯を伐ち、城下に至り、盟ひて去る。斉、我を伐ち、三邑を取る。十年、斉の南辺を伐つ。斉、魯を伐つ。季氏、冉有を用ひて功有り、孔子を思ふ。孔子、衛より魯に帰る。十四年、斉の田常、其の君簡公を徐州に弑す。孔子之を伐たんことを請ふも、哀公聴かず。十五年、子服景伯・子貢をして介と為して、斉に適かしむ。斉、我が侵地を帰す。田常初めて相たりて、諸侯に親しまんと欲す。十六年、孔子卒す。二十二年、越王句践、呉王夫差を滅す。二十七年春、季康子卒す。夏、哀公、三桓を患ひ、将に諸侯に因りて以て之を劫かさんと欲す。三桓も亦公の難を作さんことを患ふ。故に君臣間多し。公、陵阪に游び、孟武伯に街に遇ひて、曰く、「請ふ問ふ、余死に及ばんか」と。対へて曰く、「知らざるなり」と。公、越を以て三桓を伐たんと欲す。八月、哀公、陘氏に如く。三桓、公を攻む。公、衛に奔り、去りて鄒に如き、遂に越に如く。国人、哀公を迎へて復た帰らしむ。有山氏に卒す。子の寧立つ。是れを悼公と為す。悼公の時、三桓勝ち、魯は小侯の如く、三桓の家より卑し。十三年、三晋、智伯を滅し、其の地を分ちて之を有す。三十七年、悼公卒し、子の嘉立つ。是れを元公と為す。元公二十一年にして卒し、子の顕立つ。是れを穆公と為す。穆公三十三年にして卒し、子の奮立つ。是れを共公と為す。共公二十二年にして卒し、子の屯立つ。是れを康公と為す。
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孔子家語・儒行解孔子衛に在り。冉求季孫に言いて曰く、「国に聖人有りて用うる能わず、以て治を求めんと欲するは、是れ猶お歩を却けて前人に及ばんと求むるがごとし、得べからざるなり。今孔子衛に在り、衛将に之を用いんとす。己に才有りて以て隣国に資す、智を言うを以てし難きなり。請う重幣を以て之を迎えん。」季孫以て哀公に告ぐ。公之に従う。孔子既に至り、舍る。哀公之を館す。公阼階よりし、孔子賓階よりして、堂に升りて立ち侍す。