孔子家語 / 正論解
衛孔文子使太叔疾出其妻,而以其女妻之。疾誘其初妻之娣,為之立宮,與文子女,如二妻之禮。文子怒將攻之。孔子舍璩伯玉之家,文子就而訪焉。孔子曰:「簠簋之事,則嘗聞學之矣。兵甲之事,未之聞也。」退而命駕而行曰:「鳥則擇木,木豈能擇鳥乎?」文子遽自止之曰:「圉也豈敢度其私哉?亦訪衛國之難也。」將止,會季康子問冉求之戰,冉求既對之,又曰:「夫子播之百姓,質諸鬼神,而無憾,用之則有名。」康子言於哀公,以幣迎孔子曰:「人之於冉求信之矣,將大用之。」
新字:衛孔文子使太叔疾出其妻,而以其女妻之。疾誘其初妻之娣,為之立宮,与文子女,如二妻之礼。文子怒将攻之。孔子舎璩伯玉之家,文子就而訪焉。孔子曰:「簠簋之事,則嘗聞学之矣。兵甲之事,未之聞也。」退而命駕而行曰:「鳥則択木,木豈能択鳥乎?」文子遽自止之曰:「圉也豈敢度其私哉?亦訪衛国之難也。」将止,会季康子問冉求之戦,冉求既対之,又曰:「夫子播之百姓,質諸鬼神,而無憾,用之則有名。」康子言於哀公,以幣迎孔子曰:「人之於冉求信之矣,将大用之。」
書き下し
衛の孔文子、太叔疾をして其の妻を出さしめ、其の女を以て之に妻あわす。疾、其の初めの妻の娣を誘い、之が為に宮を立て、文子の女と、二妻の礼の如くす。文子怒りて将に之を攻めんとす。孔子、蘧伯玉の家に舎る、文子就きて訪う。孔子曰く、「簠簋の事は、則ち嘗て之を学ぶを聞けり。兵甲の事は、未だ之を聞かざるなり。」退きて駕を命じて行きて曰く、「鳥は則ち木を択ぶ、木豈に能く鳥を択ばんや。」文子遽かに自ら之を止めて曰く、「圉や豈に敢えて其の私を度らんや。亦た衛国の難を訪うなり。」将に止まらんとするに、会たま季康子、冉求の戦を問う。冉求既に之に対え、又た曰く、「夫子之を百姓に播き、諸を鬼神に質して、憾み無く、之を用うれば則ち名有り。」康子哀公に言い、幣を以て孔子を迎えて曰く、「人の冉求に於けるや之を信ず、将に大いに之を用いんとす。」
現代語訳
衛の孔文子は、太叔疾に命じてその妻を離縁させ、自分の娘を彼に嫁がせた。ところが疾は、前妻の妹を誘惑し、彼女のために別宅を建て、文子の娘と同じく正妻同様の礼遇を与えた。文子は怒ってこれを攻めようとした。ちょうど孔子が蘧伯玉の家に滞在していたので、文子はそこを訪ねて意見を求めた。孔子は言った、「祭器を扱うような礼の事柄については、以前学んだことがあります。しかし武器や軍事のことは、まだ学んだことがありません。」そして退出すると馬車の用意を命じて出発しようとして言った、「鳥は木を選ぶものだ、木の方から鳥を選ぶことなどできようか。」文子は慌ててそれを引き止めて言った、「私如きが、どうしてあえて自分勝手な事情のために先生を煩わせましょうか。これも衛国の困難について相談したまでのことです。」孔子が衛にとどまろうとしていたちょうどその頃、季康子が冉求に戦のことを尋ねる機会があった。冉求がこれに答えた後、さらに言った、「先生の教えは民衆に広く行き渡り、鬼神に問うても恥じるところがなく、それを用いれば必ず名声を得られます。」季康子はこれを哀公に伝え、礼物を贈って孔子を迎えて言った、「人々は冉求を信頼しています。今後は彼を大いに登用しようとしています。」
解説

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関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公十一年 鳥は木を択ぶ悼子亡(に)ぐ。衛人夏戊を翦る。孔文子の將に大叔を攻めんとするや、仲尼に訪ふ。仲尼曰く、「胡簋の事は、則ち嘗て之を學べり。甲兵の事は、未だ之を聞かざるなり」と。退きて駕を命じて行かんとして曰く、「鳥は則ち木を擇ぶ。木豈に能く鳥を擇ばんや」と。文子遽かに之を止めて曰く、「圉豈に敢へて其の私を度らんや。衛國の難を訪ふなり」と。將に止まらんとす。魯人幣を以て之を召く。乃ち歸る。季孫田賦を以てせんと欲し、冉有をして諸を仲尼に訪はしむ。仲尼曰く、「丘は識らざるなり」と。三たび發す。卒に曰く、「子は國老為り。子を待ちて行はんとす。若之何ぞ子の言はざるや」と。仲尼對へず。而して冉有に私して曰く、「君子の行ひや、禮に度る。施すは其の厚きを取り、事は其の中を舉げ、斂むるは其の薄きに從ふ。是の如くならば則ち丘を以てするも亦た足れり。若し禮に度らずして、貪冒厭くこと無くんば、則ち田賦を以てすと雖も、將た又足らざらん。且つ子季孫若し行ひて法とせんと欲せば、則ち周公の典在り。若し苟もして行はんと欲せば、又何ぞ訪はん」と。聽かず。
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孔子家語・儒行解孔子衛に在り。冉求季孫に言いて曰く、「国に聖人有りて用うる能わず、以て治を求めんと欲するは、是れ猶お歩を却けて前人に及ばんと求むるがごとし、得べからざるなり。今孔子衛に在り、衛将に之を用いんとす。己に才有りて以て隣国に資す、智を言うを以てし難きなり。請う重幣を以て之を迎えん。」季孫以て哀公に告ぐ。公之に従う。孔子既に至り、舍る。哀公之を館す。公阼階よりし、孔子賓階よりして、堂に升りて立ち侍す。
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史記 孔子世家夫れ名正しからざれば則ち言順はず、言順はざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち民手足を錯く所無し。夫れ君子は之を為せば必ず名づくべく、之を言へば必ず行ふべし。君子は其の言に於て、苟くもする所無きのみ」と。其の明年、冉有季氏の為に師を将ゐ、斉と郎に戦ひ、之に克つ。季康子曰く、「子の軍旅に於けるや、之を学べるか、之を性とせるか」と。冉有曰く、「之を孔子に学べり」と。季康子曰く、「孔子は何如なる人ぞや」と。対へて曰く、「之を用ふれば名有り。之を百姓に播き、諸を鬼神に質すも憾み無し。求の此の道に至るを求むれば、千社を累ぬと雖も、夫子は利とせざるなり」と。康子曰く、「我之を召さんと欲す、可ならんか」と。対へて曰く、「之を召さんと欲せば、則ち小人を以て之を固むること毋くんば、則ち可なり」と。而して衛の孔文子将に太叔を攻めんとし、策を仲尼に問ふ。仲尼辞して知らずとし、退きて載することを命じて行き、曰く、「鳥は能く木を択ぶ、木豈に能く鳥を択ばんや」と。文子固く止む。会々季康子公華・公賓・公林を逐ひ、幣を以て孔子を迎ふ、孔子魯に帰る。孔子の魯を去ること凡そ十四歳にして魯に反る。魯の哀公政を問ふ、対へて曰く、「政は臣を選ぶに在り」と。季康子政を問ふ、曰く、「直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、則ち枉れる者直し」と。康子盗を患ふ、孔子曰く、「苟も子の欲せざれば、之を賞すと雖も窃まず」と。然れども魯終に孔子を用ふる能はず、孔子も亦た仕ふるを求めず。孔子の時、周室微にして礼楽廃れ、詩書缺く。三代の礼を追跡し、書伝を序し、上は唐虞の際を紀し、下は秦繆に至るまで、其の事を編次す。曰く、「夏の礼は吾能く之を言へども、杞は徴とするに足らざるなり。殷の礼は吾能く之を言へども、宋は徴とするに足らざるなり。足らば、則ち吾能く之を徴とせん」と。殷夏の損益する所を観て、曰く、「後百世と雖も知るべきなり、一文一質を以てす。周は二代に監みる、郁郁乎として文なるかな。
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孔子家語・正論解齊の國師、魯を伐つ。季康子、冉求をして左師を率いて之を禦がしめ、樊遲を右と為す。「能わざるに非ざるなり、子を信ぜざればなり。請う三刻にして之を踰えん。」之を如くすれば、眾之に從う。師齊軍に入り、齊軍遁る、冉有戈を用う、故に能く入る。孔子之を聞きて曰く、「義なり。」既に戰いて、季孫冉有に謂いて曰く、「子の戰に於けるや、之を學べるか、性之に達せるか。」對えて曰く、「之を學べり。」季孫曰く、「孔子に從事して、惡くにか學べる。」冉有曰く、「即ち之を孔子に學べるなり。夫れ孔子は、大聖にして該(そな)えざる無く、文武並び用いて兼ね通ず。求や、適(たまたま)其の戰法を聞くも、猶お未だ之を詳らかにせざるなり。」季孫悅び、樊遲以て孔子に告ぐ。孔子曰く、「季孫是に於てや、人の能有るを悅ぶと謂うべし。」
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『翁問答』改訂翁問答(丙戌冬)斉人と魯人と郊に戦ふとき、魯軍の右手の大将は冉求也、管周父御たり、樊遅右たり、すでに戦合て魯の左手敗軍しぬれども、右手は少もしりそかず、樊遅の謀を用ひ、冉求自身鑓を入て斉の軍を敗り、甲首八十を得たるゆへに、終に魯国の勝軍に為りぬ、其後季康子冉求に問けるは、今度の軍功たぐひなき事なり、軍法を学び得てかくありしや、但し又生れ付たる器用にやと冉求答ていはく、生れながらにしてするに非ず、孔子に学び得たりといへり、季康子是に依て幣を以て孔子をむかへ、孔子魯国に帰り給ひぬ。師の曰、冉求若季氏が大将となりめされずば、此軍功あるべからず、此軍功なくば、孔子の文武兼備り軍法に長じ給ふ事を、季子うたがひしる事能はざるべし、聖人のいます時さへかくの如くなれば、後世の文武をわけて二つにするあやまりもさのみとがむまじき事にや。
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史記 孔子世家夏、衛の霊公卒し、孫輒を立つ、是れを衛の出公と為す。六月、趙鞅太子蒯聵を戚に内る。陽虎、太子をして絻せしめ、八人衰絰し、偽りて衛より迎ふる者として、哭して入り、遂に焉に居る。冬、蔡州来に遷る。是の歳魯の哀公三年にして、孔子年六十なり。斉衛を助けて戚を囲む、衛の太子蒯聵在るの故を以てなり。夏、魯の桓釐の廟燔く、南宮敬叔火を救ふ。孔子陳に在り、之を聞きて曰く、「災は必ず桓釐の廟に於てせんか」と。已にして果たして然り。秋、季桓子病み、輦して魯城を見、喟然として嘆じて曰く、「昔此の国幾ど興らんとす、吾罪を孔子に獲たるを以ての故に、興らざるなり」と。顧みて其の嗣康子に謂ひて曰く、「我即し死せば、若必ず魯に相たれ。魯に相たらば、必ず仲尼を召せ」と。後数日、桓子卒し、康子代はりて立つ。已に葬り、仲尼を召さんと欲す。公之魚曰く、「昔吾が先君之を用ひて終へず、終に諸侯の笑ひと為る。今又之を用ひ、終ふること能はずんば、是れ再び諸侯の笑ひと為らん」と。康子曰く、「則ち誰を召さば可ならん」と。曰く、「必ず冉求を召せ」と。是に於て使をして冉求を召さしむ。冉求将に行かんとす、孔子曰く、「魯人求を召す、之を小用するに非ず、将に之を大用せんとするなり」と。是の日、孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、斐然として章を成す、吾之を裁する所以を知らず」と。子貢孔子の帰らんことを思ふを知り、冉求を送り、因りて誡めて曰く「即し用ひられなば、孔子を以て招と為せ」と云ふ。冉求既に去り、明年、孔子陳より蔡に遷る。蔡の昭公将に呉に如かんとす、呉之を召せばなり。前に昭公其の臣を欺きて州来に遷る、後に将に往かんとするに、大夫復た遷らんことを懼れ、公孫翩昭公を射殺す。楚蔡を侵す。秋、斉の景公卒す。明年、孔子蔡より葉に如く。葉公政を問ふ、孔子曰く、「政は遠きを来たし邇きを附くるに在り」と。他日、葉公孔子を子路に問ふ、子路対へず。