孔子家語 / 正論解
楚昭王有疾,卜曰:「河神為祟。」王弗祭,大夫請祭諸郊。王曰:「三代命祀,祭不越望。江漢沮漳,楚之望也。禍福之至,不是過乎?不谷雖不德,河非所獲罪也。」遂不祭。孔子曰:「楚昭王知大道矣。其不失國也,宜哉。夏書曰:『維彼陶唐,率彼天常,在此冀方。今失厥道,亂其紀綱,乃滅而亡。』」又曰:「允出茲在茲,由己率常可矣。」
新字:楚昭王有疾,卜曰:「河神為祟。」王弗祭,大夫請祭諸郊。王曰:「三代命祀,祭不越望。江漢沮漳,楚之望也。禍福之至,不是過乎?不谷雖不徳,河非所獲罪也。」遂不祭。孔子曰:「楚昭王知大道矣。其不失国也,宜哉。夏書曰:『維彼陶唐,率彼天常,在此冀方。今失厥道,乱其紀綱,乃滅而亡。』」又曰:「允出茲在茲,由己率常可矣。」
書き下し
楚の昭王、疾有り。卜して曰く、「河神祟りを為す。」王祭らず。大夫、諸を郊に祭らんことを請う。王曰く、「三代の命祀は、祭ること望を越えず。江・漢・沮・漳は、楚の望なり。禍福の至るは、是を過ぎざらんや。不穀は徳無しと雖も、河は罪を獲る所に非ず。」遂に祭らず。孔子曰く、「楚の昭王は大道を知れり。其の国を失わざるや、宜なるかな。夏書に曰く、『維れ彼の陶唐、彼の天常に率い、此の冀方に在り。今厥の道を失い、其の紀綱を乱し、乃ち滅びて亡ぶ。』」又曰く、「允に茲より出でて茲に在り、己に由りて常に率うも可なり。」
現代語訳
楚の昭王が病気になった。占いをすると「河の神が祟りをなしている」と出た。王は祭祀を行わなかった。大夫たちは郊外で河神を祭ることを願い出た。王は言った、「夏・殷・周三代の祭祀の定めでは、祭祀は望祭の対象を越えてはならない。長江・漢水・沮水・漳水こそが楚国の望祭の対象である。禍福が身に及ぶのは、この範囲を越えることはないはずだ。私に徳がないとはいえ、黄河が私に罪を負わせるようなことはないだろう。」そしてついに祭祀を行わなかった。孔子はこれを聞いて言った、「楚の昭王は大いなる道理を知っていた。彼が国を失わなかったのも当然のことだ。夏書に言う、『あの陶唐氏(堯)は、天の常道に従い、この冀州の地にあった。今その道を失い、その紀綱を乱し、ついに滅び亡んだ。』」また言った、「まことに事の善悪は自分自身から出て自分自身にある。己に由って常道に従いさえすれば、それでよいのだ。」
解説

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説苑・君道楚の昭王疾有り。之を卜して曰く、「河祟を為す」と。大夫三牲を用いんことを請う。王曰く、「止めよ、古の先王は地を割き土を制め、祭は望を過ぎず。江・漢・睢・漳は楚の望なり。禍福の至るや、是に過ぎず。不穀不徳なりと雖も、河は罪を獲る所に非ず」と。遂に祭らず。仲尼之を聞きて曰く、「昭王は天道を知ると謂うべし、其の国を失わざるや宜なるかな」と。
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『春秋左氏伝』哀公六年 楚の昭王、大道を知る秋、七月、楚子城父に在り、將に陳を救はんとす。戰を卜するに吉ならず、退くを卜するに吉ならず。王曰く、「然らば則ち死なり。再び楚の師を敗らんよりは、死するに如かず。盟を棄て讎を逃るるも、亦た死するに如かず。死は一なり。其れ讎に死せんか」と。公子申に命じて王と為さんとす。可かず。則ち公子結に命ず。亦た可かず。則ち公子啟に命ず。五たび辭して而る後に許す。將に戰はんとするに、王疾有り。庚寅、昭王大冥を攻め、城父に卒す。子閭退きて曰く、「君王其の子を舍てて讓る。群臣敢へて君を忘れんや。君の命に從ふは、順なり。君の子を立つるも、亦た順なり。二順は失ふべからざるなり」と。子西・子期と謀り、師を潛め塗を閉ぢ、越女の子章を逆へて之を立て、而る後に還る。是の歲や、雲の眾(おほ)き赤鳥の如き有り、日を夾みて以て飛ぶこと三日。楚子、人をして諸を周の大史に問はしむ。周の大史曰く、「其れ王の身に當らんか。若し之を禜(えい)せば、令尹・司馬に移すべし」と。王曰く、「腹心の疾を除きて、諸を股肱に寘くも何の益かあらん。不穀大過有らずんば、天其れ諸を夭せんや。罪有りて罰を受く、又焉んぞ之を移さん」と。遂に禜せず。初め、昭王疾有り。卜して曰く、「河、祟りを為す」と。王祭らず。大夫、諸を郊に祭らんことを請ふ。王曰く、「三代の命祀、祭は望を越えず。江・漢・雎・章は、楚の望なり。禍福の至るは、是に過ぎず。不穀德あらずと雖も、河は罪を獲る所に非ざるなり」と。遂に祭らず。孔子曰く、「楚の昭王は大道を知れり。其の國を失はざるや宜なるかな。夏書に曰く、『惟れ彼の陶唐、彼の天常に帥(したが)ひ、此の冀方を有(たも)つ。今其の行を失ひ、其の紀綱を亂し、乃ち滅びて亡ぶ』と。又曰く、『茲に出づるは允(まこと)に茲に在り』と。己に由りて常に率へば可なり」と。
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孔子家語・正論解楚の靈王汰侈(たいし)にして、右尹子革侍坐す。左史倚相趨りて過ぐ。王曰く、「是れ良史なり。子善く之を視よ。是れ能く三墳五典、八索九丘を讀む。」對えて曰く、「夫れ良史とは、君の過ちを記し、君の善を揚ぐ。而るに此の子は潤辭を以て官と為す、良史と為すべからず。」曰く、「臣又乃ち嘗て聞けり。昔周の穆王其の心を肆にせんと欲し、將に天下を過行し、皆をして車轍有らしめ、馬跡を並べしめんとす。祭公謀父《祚昭》を作りて、以て王の心を止む。王是を以て文官に殆きを獲たり。臣其の詩を聞けるも、知らず。若し遠きを問わば、其れ焉んぞ能く知らんや。」王曰く、「子能くするか。」對えて曰く、「能くす。其の詩に曰く、『祈昭の愔愔たるかな、式(も)て昭德の音、我が王度を思う、式て玉の如く、式て金の如し。民の力を刑(はか)りて、醉飽の心有る無し。』」靈王揖して入る。饋するも食らわず、寢ぬるも寐ねず、數日にして則ち固より其の情に勝つ能わず、以て難に及ぶ。孔子其の志を讀みて曰く、「古者に志有り、己に克ちて禮に復るを仁と為す、と。信に善いかな。楚の靈王若し能く是くの如くならば、豈に幹溪に辱めらるるを期せんや。子革の左史を非とするは、風する所以なり。詩を稱して以て諫むるは、順なるかな。」
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説苑・君道楚の昭王の時、雲有りて飛鳥の如く、日を夾みて三日飛ぶ。昭王之を患いて、人をして駅に乗じて東し、諸を太史州黎に問わしむ。州黎曰く、「将に王身に虐せんとす、令尹司馬を以て之に説かば則ち可なり」と。令尹司馬之を聞き、宿斎沐浴し、将に自ら身を以て之に禱らんとす。王曰く、「止めよ、楚国の不穀有るは、身の匈脅有るに由るなり。其れ令尹司馬有るは、身の股肱有るに由るなり。匈脅疾有れば、之を股肱に転ず、庸ぞ是の人を去るを為さん」と。
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『春秋左氏伝』昭公二十年 祝史を誅せんとす齊侯疥(かい)し、遂に痁(せん)す。期にして瘳えず。諸侯の賓疾を問ふ者多く在り。梁丘據と裔款と公に言ひて曰く、「吾鬼神に事ふること豐かにして、先君に於いて加ふること有り。今君疾病して、諸侯の憂ひと為る。是れ祝史の罪なり。諸侯知らず、其れ我を不敬と謂はん。君盍ぞ祝固・史嚚を誅して、以て賓に辭せざる」と。公說び、晏子に告ぐ。晏子曰く、「日(さき)に宋の盟に、屈建范會の德を趙武に問ふ。趙武曰く、『夫子の家事治まり、晉國に言ひて、情を竭くして私無し。其の祝史祭祀して、信を陳べて愧ぢず。其の家事猜無く、其の祝史祈らず』と。建以て康王に語る。康王曰く、『神人怨無し。宜なるかな夫子の光(おほ)いに五君を輔けて、以て諸侯の主と為すこと』と」と。公曰く、「據と款と、寡人能く鬼神に事ふと謂ふ。故に祝史を誅せんと欲す。子是の語を稱するは、何の故ぞ」と。對へて曰く、「若し有德の君ならば、
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説苑・辨物楚の昭王江を渡るに、物有りて大いさ斗の如く、直ちに王の舟に触れ、舟中に止まる。昭王大いに之を怪しみ、使いをして孔子に聘問せしむ。孔子曰わく、「此れ萍実(へいじつ)と名づく。」剖(さ)きて之を食らわしめて曰わく、「惟だ覇者のみ能く之を獲(う)。此れ吉祥なり。」其の後斉に飛鳥一足なる有りて来下し、殿前に止まり、翅を舒(の)べて跳ぶ。斉侯大いに之を怪しみ、又使いをして孔子に聘問せしむ。孔子曰わく、「此れ商羊と名づく。急ぎ民に告げて趣(すみ)やかに溝渠を治めしめよ。天将に大いに雨ふらんとす。」是に於いて之の如くすれば、天果たして大いに雨ふり、諸国皆水す。斉独り以て安し。孔子帰るに、弟子問うことを請う。孔子曰わく、「異時(かつて)小児謠に曰わく、楚王江を渡りて萍実を得たり、大いさ拳の如く、赤きこと日の如し、剖きて之を食らえば、美なること蜜の如しと。此れ楚の応なり。児又両両相牽き、一足を屈して跳び、曰わく、天将に大いに雨ふらんとす、商羊起きて舞うと。今斉之を獲たるも、亦た其の応なり。夫れ謠の後、未だ嘗て応の随う者有らざるなし。故に聖人は独り道を守るのみに非ざるなり、物を睹て記す、即ち其の応を得るなり。」