孔子家語 / 終記解
孔子之喪,公西掌殯葬焉。唅以疏米三具,襲衣十有一稱,加朝服一,冠章甫之冠;佩象環,徑五寸而綦組綬。桐棺四寸,柏棺五寸,飭廟置翣,設披周也。設崇殷也。綢練設旐夏也。兼用三王禮,所以尊師,且備古也。葬於魯城北泗水上,藏入地,不及泉而封,為偃斧之形,高四尺,樹松柏為誌焉。弟子皆家於墓,行心喪之禮。既葬,有自燕來觀者,舍於子夏氏。子貢謂之曰:「吾亦人之葬,聖人非聖人之葬,人子奚觀焉?昔夫子言曰:『見吾封若夏屋者,見若斧矣,從若斧者也,馬𩯝,封之謂也。』今徒一日三斬板而以封,尚行夫子之志而已,何觀乎哉?」
新字:孔子之喪,公西掌殯葬焉。唅以疏米三具,襲衣十有一称,加朝服一,冠章甫之冠;佩象環,径五寸而綦組綬。桐棺四寸,柏棺五寸,飭廟置翣,設披周也。設崇殷也。綢練設旐夏也。兼用三王礼,所以尊師,且備古也。葬於魯城北泗水上,蔵入地,不及泉而封,為偃斧之形,高四尺,樹松柏為誌焉。弟子皆家於墓,行心喪之礼。既葬,有自燕来観者,舎於子夏氏。子貢謂之曰:「吾亦人之葬,聖人非聖人之葬,人子奚観焉?昔夫子言曰:『見吾封若夏屋者,見若斧矣,従若斧者也,馬𩯝,封之謂也。』今徒一日三斬板而以封,尚行夫子之志而已,何観乎哉?」
書き下し
孔子の喪、公西(公西赤)殯葬を掌る。唅(がん)するに疏米三具を以てし、襲衣十有一稱、朝服一を加え、章甫の冠を冠らしめ、象環を佩びしむ、徑五寸にして綦組の綬。桐棺四寸、柏棺五寸、廟を飭(ととの)え翣(さつ)を置き、披を設くるは周なり。崇を設くるは殷なり。綢練して旐(ちょう)を設くるは夏なり。三王の禮を兼ね用うるは、師を尊ぶ所以にして、且つ古を備うるなり。魯城の北、泗水の上に葬る。藏を地に入れ、泉に及ばずして封じ、偃斧の形を為す、高さ四尺、松柏を樹てて誌と為す。弟子皆墓に家し、心喪の禮を行う。既に葬るや、燕自り來たりて觀る者有り、子夏氏に舍る。子貢之に謂いて曰く、「吾も亦人の葬、聖人は聖人の葬に非ず、人子奚ぞ觀んや。昔、夫子言えること有り、曰く、『吾が封を見て夏屋の若き者は、斧の若きを見ん。斧の若きに從う者なり、馬鬣とは、封の謂いなり。』今徒(た)だ一日に三たび板を斬りて以て封ず、尚お夫子の志を行うのみ、何ぞ觀んや。」
現代語訳
孔子の葬儀は、公西(赤)が殯葬をつかさどった。口に含ませる米は疏米三具、着せる衣は十一領重ね、その上に朝服一領を加え、章甫の冠をかぶらせ、象牙の環を佩びさせた。その環は直径五寸で、組紐の綬をつけていた。棺は桐の内棺が四寸、柏の外棺が五寸。廟を整え翣(棺の飾り)を置くのは周の礼、崇(飾り)を設けるのは殷の礼、練り絹で旐(旗)を設けるのは夏の礼である。夏・殷・周三代の礼を併せ用いたのは、師を尊ぶためであり、また古の礼を備えるためであった。魯の都の北、泗水のほとりに葬った。棺を地中に納め、泉(地下水)には届かない深さで封土し、伏せた斧のような形にして、高さ四尺、松や柏を植えて墓の目印とした。弟子たちは皆墓のそばに住まいを構え、心喪(喪服を着けない喪)の礼を行った。葬儀の後、燕からやってきて墓を見物する者があり、子夏の家に泊まった。子貢はその人に言った。「私もまた人の葬儀を見てきましたが、聖人の葬儀といっても特別なものではありません。人の子たる者が何を見物することがありましょうか。昔、先生はこう言われました。『私の墓の盛り土が夏屋(大きな家)のようであれば、それは斧の形に似たものを見ることになろう。斧のような形に従うのは、馬のたてがみのような形が、墓の盛り土のあるべき姿だからだ。』と。今はただ一日に三度板築(土を突き固める作業)をして墓を作っただけで、先生の志を行っただけのことです。何を見物することがありましょうか。」
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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