孔子家語 / 終記解
齊太史子與適魯,見孔子,孔子與之言道。子與悅曰:「吾鄙人也。聞子之名,不睹子之形久矣,而未知寶貴也。乃今而後,知泰山之為高,淵海之為大。惜乎夫子之不逢明王,道德不加於民,而將垂寶以貽後世。」遂退而謂南宮敬叔曰:「今孔子先聖之嗣,自弗父何以來,世有德讓,天所祚也。成湯以武德王天下,其配在文。殷宗以下,未始有也。孔子生於衰周,先王典籍,錯亂無紀。而乃論百家之遺記,考正其義;祖述堯舜,憲章文武;刪詩述書,定禮理樂,制作春秋,贊明易道;垂訓後嗣,以為法式,其文德著矣。然凡所教誨,束修已上,三千餘人。或者天將欲與素王之乎?夫何其盛也?」敬叔曰:「殆如吾子之言,夫物莫能兩大。吾聞聖人之後,而非繼世之統,其必有興者焉。今夫子之道至矣,乃將施之無窮。雖欲辭天之祚,故未得耳。」子貢聞之,以二子之言告孔子。子曰:「豈若是哉?亂而治之,滯而起之。自吾志,天何與焉?」
新字:斉太史子与適魯,見孔子,孔子与之言道。子与悦曰:「吾鄙人也。聞子之名,不睹子之形久矣,而未知宝貴也。乃今而後,知泰山之為高,淵海之為大。惜乎夫子之不逢明王,道徳不加於民,而将垂宝以貽後世。」遂退而謂南宮敬叔曰:「今孔子先聖之嗣,自弗父何以来,世有徳譲,天所祚也。成湯以武徳王天下,其配在文。殷宗以下,未始有也。孔子生於衰周,先王典籍,錯乱無紀。而乃論百家之遺記,考正其義;祖述堯舜,憲章文武;刪詩述書,定礼理楽,制作春秋,賛明易道;垂訓後嗣,以為法式,其文徳著矣。然凡所教誨,束修已上,三千余人。或者天将欲与素王之乎?夫何其盛也?」敬叔曰:「殆如吾子之言,夫物莫能両大。吾聞聖人之後,而非継世之統,其必有興者焉。今夫子之道至矣,乃将施之無窮。雖欲辞天之祚,故未得耳。」子貢聞之,以二子之言告孔子。子曰:「豈若是哉?乱而治之,滞而起之。自吾志,天何与焉?」
書き下し
齊の太史子與、魯に適き、孔子に見え、孔子之と道を言う。子與悦びて曰く、「吾は鄙人なり。子の名を聞くも、子の形を睹ざること久しく、而して未だ寶貴なるを知らざりき。乃ち今より後、泰山の高きたる、淵海の大なるたるを知る。惜しいかな、夫子の明王に逢わず、道德民に加えられずして、將に寶を垂れて以て後世に貽さんとするは。」遂に退きて南宮敬叔に謂いて曰く、「今、孔子は先聖の嗣にして、弗父何より以來、世に德讓有り、天の祚くる所なり。成湯は武德を以て天下に王たり、其の配は文に在り。殷宗より以下、未だ始めより有らざるなり。孔子は衰周に生まれ、先王の典籍、錯亂して紀無し。而るに乃ち百家の遺記を論じて、其の義を考正す。堯舜を祖述し、文武を憲章し、詩を刪り書を述べ、禮を定め樂を理め、春秋を制作し、易道を贊明す。訓を後嗣に垂れ、以て法式と為す、其の文德著るし。然れども凡そ教誨する所、束修已上、三千餘人。或いは天將に素王を之に與えんと欲するか。夫れ何ぞ其れ盛んなるや。」敬叔曰く、「殆ど吾子の言の如し。夫れ物は兩つながら大なる能わず。吾聞く、聖人の後にして繼世の統に非ざれば、其れ必ず興る者有り、と。今、夫子の道至れり、乃ち將に之を窮まり無きに施さんとす。天の祚を辭せんと欲すと雖も、故に未だ得ざるのみ。」子貢之を聞き、二子の言を以て孔子に告ぐ。子曰く、「豈に是くの若きならんや。亂れて之を治め、滯りて之を起こす。吾が志より、天何ぞ與らんや。」
現代語訳
斉の太史(記録官)子與が魯に来て孔子に会い、孔子と道について語り合った。子與は喜んで言った。「私は田舎者です。あなたの名声は聞いていましたが、お姿を拝見することは長らくなく、これほど貴い方とは知りませんでした。今こうしてお会いして初めて、泰山がいかに高く、淵海がいかに大きいかを知りました。惜しいことに、先生は明君に出会えず、その道徳を民に及ぼすことができず、まさに宝を後世に遺そうとしておられるのですね。」そして退出すると南宮敬叔に語った。「今、孔子は先聖の子孫であり、弗父何以来、代々徳による譲位の美風があり、天が幸いを与えている家系です。成湯は武徳によって天下の王となりましたが、その徳に配するものは文でした。殷の宗室以来、これほどの人物はまだ現れていません。孔子は衰えた周の世に生まれ、先王の典籍は乱れて秩序を失っていました。それを孔子は諸家の遺した記録を論じてその意義を正し、堯舜を祖として述べ、文王・武王に則り、詩経を選び書経をまとめ、礼を定め楽を整え、春秋を著し、易の道を明らかにされました。教えを後世に垂れて模範とし、その文徳は顕著です。そして教え導いた者は、わずかな謝礼を納めた者以上で三千余人にもなります。あるいは天が孔子を『素王(位なき王)』にしようとしているのでしょうか。何と盛んなことでしょう。」敬叔は言った。「まさにあなたの言う通りでしょう。物事は二つながら大きくはなれないものです。私が聞くところでは、聖人の子孫でありながら王統を継がない者は、必ず別の形で興隆するといいます。今、先生の道は極まっており、まさに限りなく広まろうとしています。天の与える幸いを辞退しようとしても、なお辞退しきれないのです。」子貢がこれを聞き、二人の言葉を孔子に伝えた。孔子は言った。「どうしてそのようなことがあろうか。乱れたものを治め、滞ったものを興す、それだけのことだ。私の志によるのであって、天が何を与えるというのか。」
解説

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史記 孔子世家「徳の脩まらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙る能はざる、不善改むる能はざる、是れ吾が憂ひなり」と。人をして歌はしめ、善なれば、則ち之を復せしめ、然る後に之に和す。子は怪・力・乱・神を語らず。子貢曰く、「夫子の文章は、得て聞くべきなり。夫子の天道と性命とを言ふは、得て聞くべからざるのみ」と。顔淵喟然として嘆じて曰く、「之を仰げば弥々高く、之を鑽れば弥々堅し。之を瞻れば前に在り、忽焉として後に在り。夫子は循循然として善く人を誘ふ、我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす、罷めんと欲すれども能はず。既に我が才を竭くすに、立つ所有りて、卓爾たるが如し。之に従はんと欲すと雖も、由る蔑きのみ」と。達巷党の人童子曰く、「大なるかな孔子、博く学びて名を成す所無し」と。子之を聞きて曰く、「我何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか。我は御を執らん」と。牢曰く、「子云ふ『試ひられず、故に芸あり』と」。春、大野に狩す。叔孫氏の車子鉏商獣を獲たり、以て不祥と為す。仲尼之を視て曰く、「麟なり」と。之を取る。曰く、「河図を出さず、雒書を出さず、吾已んぬるかな」と。顔淵死す、孔子曰く、「天予を喪ぼせり」と。西狩して麟を見るに及び、曰く、「吾が道窮まれり」と。喟然として嘆じて曰く、「我を知る莫きかな」と。子貢曰く、「何為れぞ子を知る莫からん」と。子曰く、「天を怨みず、人を尤めず、下学して上達す、我を知る者は其れ天か」と。「其の志を降さず、其の身を辱めざるは、伯夷・叔斉か」と。「柳下恵・少連は志を降し身を辱めたり」と謂ふ。「虞仲・夷逸は隠居して放言し、行ひ清に中り、廃権に中る」と謂ふ。「我は則ち是に異なり、可も無く不可も無し」と。子曰く、「弗なるかな弗なるかな、君子は世を没して名の称せられざるを病む。吾が道行はれず、吾何を以てか自ら後世に見はさんや」と。乃ち史記に因りて春秋を作る、上は隠公に至り、下は哀公十四年に訖る、十二公なり。魯に拠り、周を親とし、殷を故とし、之を三代に運らす。其の文辞を約にして指博し。
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史記 孔子世家仲尼曰く、「山川の神は以て天下を綱紀するに足る、其の守を神と為し、社稷を公侯と為す、皆王者に属す」と。客曰く、「防風は何をか守る」と。仲尼曰く、「汪罔氏の君、封・禺の山を守り、釐姓たり。虞・夏・商に在りては汪罔と為し、周に於ては長翟と為し、今之を大人と謂ふ」と。客曰く、「人の長は幾何ぞ」と。仲尼曰く、「僬僥氏は三尺、短の至りなり。長き者も之に十するに過ぎず、数の極みなり」と。是に於て呉の客曰く、「善いかな聖人」と。桓子の嬖臣を仲梁懐と曰ふ、陽虎と隙有り。陽虎懐を逐はんと欲す、公山不狃之を止む。其の秋、懐益々驕る、陽虎懐を執ふ。桓子怒る、陽虎因りて桓子を囚へ、与に盟ひて之を醳す。陽虎此に由りて益々季氏を軽んず。季氏も亦た公室に僭し、陪臣国政を執る、是を以て魯は大夫より以下皆正道より僭離す。故に孔子仕へず、退きて詩書礼楽を脩む、弟子弥々衆く、遠方より至り、業を受けざる莫し。定公八年、公山不狃季氏に意を得ず、陽虎に因りて乱を為し、三桓の適を廃し、更に其の庶孽の陽虎素より善くする所の者を立てんと欲し、遂に季桓子を執ふ。桓子之を詐り、脱するを得たり。定公九年、陽虎勝たず、斉に奔る。是の時孔子年五十。公山不狃費を以て季氏に畔き、人をして孔子を召さしむ。孔子道に循ふこと弥々久しく、温温として試みらるる所無く、能く己を用ふる莫し、曰く、「蓋し周の文・武は豊・鎬より起こりて王たり、今費は小なりと雖も、儻くは庶幾からんか」と。往かんと欲す。子路説ばず、孔子を止む。孔子曰く、「夫れ我を召す者は豈に徒ならんや。如し我を用ひば、其れ東周を為さんか」と。然れども亦た卒に行かず。其の後定公孔子を以て中都の宰と為す、一年にして、四方皆之に則る。中都の宰より司空と為り、司空より大司寇と為る。定公十年春、斉と平らぐ。
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孔子家語・觀周孔子、南宮敬叔に謂いて曰わく、「吾れ老聃は博く古を知り今に通じ、禮樂の原に通じ、道德の歸に明らかなりと聞く。則ち吾が師なり。今將に往かんとす。」對えて曰わく、「謹んで命を受く。」遂に魯君に言いて曰わく、「臣、先臣の命を受く。孔子は聖人の後なりと云う。宋に滅び、其の祖弗父何、始めて國を有つも厲公に授け、正考父の戴・武・宣を佐くるに及び、三命にして茲に益々恭し。故に其の鼎の銘に曰わく、『一命にして僂り、再命にして傴み、三命にして俯し、墻に循いて走る、亦た余を敢えて侮る莫し、饘も是に、粥も是に、以て其の口を餬す、其の恭儉なるや、此くの若し。』と。臧孫紇言える有り、『聖人の後、若し世に當たらざれば、則ち必ず明君ありて達する者あらん、孔子少くして禮を好む、其れ將に在らんとす。』と。臣に屬して曰わく、『汝必ず之を師とせよ。』と。今、孔子將に周に適かんとし、先王の遺制を觀、禮樂の極まる所を考えんとす。斯れ大業なり。君盍ぞ乘を以て之を資けざる。臣請う與に往かん。」公曰わく、「諾。」孔子に車一乘、馬二疋を與え、其の侍御を堅くす。敬叔與に俱に周に至り、禮を老聃に問い、樂を萇弘に訪う。郊社の所を歷、明堂の則を考え、廟朝の度を察す。是に於いて喟然として曰わく、「吾れ乃ち今、周公の聖と、周の王たる所以とを知る。」
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史記 孔子世家孔子長九尺有六寸、人皆之を「長人」と謂ひて之を異とす。魯復た善く待す、是に由りて魯に反る。魯の南宮敬叔、魯君に言ひて曰く、「請ふ孔子と周に適かん」と。魯君之に一乗車、両馬、一豎子を与へて倶にし、周に適きて礼を問ふ、蓋し老子に見ゆと云ふ。辞去するに、老子之を送りて曰く、「吾聞く、富貴なる者は人を送るに財を以てし、仁人なる者は人を送るに言を以てすと。吾富貴なること能はず、仁人の号を窃み、子を送るに言を以てせん、曰く、『聡明深察にして死に近き者は、好んで人を議する者なり。博辯広大にして其の身を危ふくする者は、人の悪を発く者なり。人の子たる者は以て己を有すること毋かれ、人の臣たる者は以て己を有すること毋かれ』」と。孔子周より魯に反り、弟子稍く益々進む。是の時や、晋の平公淫し、六卿権を擅にし、東のかた諸侯を伐つ。楚の霊王兵彊く、中国を陵轢す。斉は大にして魯に近し。魯は小弱にして、楚に附けば則ち晋怒り、晋に附けば則ち楚来たり伐つ。斉に備へざれば、斉の師魯を侵す。魯の昭公の二十年にして、孔子蓋し年三十なり。斉の景公、晏嬰と来たりて魯に適く。景公孔子に問ひて曰く、「昔秦の穆公、国小にして辟に処る、其の霸たるは何ぞや」と。対へて曰く、「秦は、国小なりと雖も、其の志大なり。処辟なりと雖も、行ひ中正なり。身づから五羖を挙げ、之に大夫を爵し、纍紲の中より起こし、与に語ること三日にして、之に政を授く。此を以て之を取らば、王と雖も可なり、其の霸は小なり」と。景公説ぶ。孔子年三十五にして、季平子と郈昭伯と闘鶏の故を以て罪を魯の昭公に得たり。昭公師を率ゐて平子を撃つ、平子、孟氏・叔孫氏の三家と共に昭公を攻む。昭公の師敗れ、斉に奔る、斉、昭公を乾侯に処らしむ。其の後頃之くして、魯乱る。孔子斉に適き、高昭子の家臣と為り、以て景公に通ぜんと欲す。
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史記 孔子世家子貢入りて見ゆ。孔子曰く、「賜、吾が道非なるか、吾何為れぞ此に於てする」と。子貢曰く、「夫子の道至って大なり、故に天下能く夫子を容るる莫し。夫子蓋ぞ少しく貶せざる」と。孔子曰く、「賜、良農能く稼ゑて能く穡を為さず、良工能く巧みにして能く順を為さず。君子能く其の道を脩め、綱して之を紀し、統して之を理むるも、能く容を為さず。今爾爾の道を脩めずして容を為すを求む。賜、爾の志遠からず」と。
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史記 孔子世家故に呉楚の君自ら王と称するも、春秋之を貶して「子」と曰ふ。践土の会は実は周の天子を召せるも、春秋之を諱みて「天王河陽に狩す」と曰ふ。此の類を推して以て当世を縄す。貶損の義は、後に王者有りて挙げて之を開かん。春秋の義行はるれば、則ち天下の乱臣賊子懼る。孔子位に在りて訟を聴くに、文辞の人と共にすべき者有れば、独り有せざるなり。春秋を為るに至りては、筆すべきは則ち筆し、削るべきは則ち削る、子夏の徒も一辞を賛する能はず。弟子春秋を受く、孔子曰く、「後世丘を知る者は春秋を以てし、而して丘を罪する者も亦た春秋を以てせん」と。明歳、子路衛に死す。孔子病む、子貢見えんことを請ふ。孔子方に杖を負ひて門に逍遥し、曰く、「賜、汝来たること何ぞ其れ晩きや」と。孔子因りて歎じ、歌ひて曰く、「太山壊れんか、梁柱摧けんか、哲人萎まんか」と。因りて以て涕下る。子貢に謂ひて曰く、「天下道無きこと久し、能く予を宗とする莫し。夏人は東階に殯し、周人は西階に於てし、殷人は両柱の間にす。昨暮予夢に両柱の間に坐奠せらる、予は始め殷人なり」と。後七日にして卒す。孔子年七十三、四月己丑を以て卒す。哀公之を誄して曰く、「旻天弔まず、一老を愸遺せず、余一人を屏けて以て位に在らしめ、煢煢として余疚に在り。嗚呼哀しいかな、尼父、自ら律すること毋し」と。子貢曰く、「君其れ魯に没せざらんか。夫子の言に曰く、『礼失へば則ち昬く、名失へば則ち愆る。志を失ふを昬と為し、所を失ふを愆と為す』と。生きては用ふる能はず、死して之を誄するは、礼に非ざるなり。『余一人』と称するは、名に非ざるなり」と。孔子魯城の北の泗上に葬らる、弟子皆服すること三年。三年心喪畢はり、相訣れて去る、則ち哭し、各々復た哀しみを尽くす。或いは復た留まる。唯子貢のみ冢上に廬すること、凡そ六年、然る後に去る。弟子及び魯人の往きて冢に従ひて家する者百有余室、因りて命じて孔里と曰ふ。