孔子家語 / 論禮
子夏曰:「敢問何謂五至?」孔子曰:「志之所至,詩亦至焉;詩之所至,禮亦至焉;禮之所至,樂亦至焉;樂之所至,哀亦至焉。詩禮相成,哀樂相生。是以正明目而視之,不可得而見;傾耳而聽之,不可得而聞。志氣塞於天地,行之克於四海。此之謂五至矣。」
新字:子夏曰:「敢問何謂五至?」孔子曰:「志之所至,詩亦至焉;詩之所至,礼亦至焉;礼之所至,楽亦至焉;楽之所至,哀亦至焉。詩礼相成,哀楽相生。是以正明目而視之,不可得而見;傾耳而聴之,不可得而聞。志気塞於天地,行之克於四海。此之謂五至矣。」
書き下し
子夏曰わく、「敢えて問う、何をか五至と謂う。」孔子曰わく、「志の至る所、詩も亦た至る。詩の至る所、礼も亦た至る。礼の至る所、楽も亦た至る。楽の至る所、哀も亦た至る。詩礼相成り、哀楽相生ず。是を以て正しく目を明らかにしてこれを視るも、得て見るべからず。耳を傾けてこれを聴くも、得て聞くべからず。志気天地に塞がり、これを行いて四海に克つ。此れを五至と謂う。」
現代語訳
子夏が尋ねた。「あえてお尋ねします。五至とは何を言うのですか。」孔子は言った。「志の至るところには、詩もまた至ります。詩の至るところには、礼もまた至ります。礼の至るところには、楽もまた至ります。楽の至るところには、哀しみもまた至ります。詩と礼とは互いに成り立たせ合い、哀しみと楽しみとは互いに生み出し合います。だから、目をこらして正面から見ようとしても、はっきりと見ることはできませんし、耳を傾けて聴こうとしても、はっきりと聞くことはできません。それでいて、志気は天地に満ち満ち、その働きは天下の隅々にまで行き渡るのです。これを五至といいます。」
解説
「五至」とは、志・詩・礼・楽・哀という五つの心の働きが、互いに深く通じ合い、一つが極まれば他もまた極まるという境地を指します。目に見えず耳にも聞こえないのに、その気迫は天地に満ち天下の隅々にまで及ぶという表現は、形として捉えられない精神的な感化力の大きさを強調しています。理屈や言葉で説明しきれないほどの、内面から発する誠実な志の力が、詩・礼・楽・哀しみという形をとって外へ広がっていくという考え方は、リーダーの内面の充実がそのまま周囲への影響力になるという、現代のリーダーシップ論にも通じる示唆を含んでいます。
この章句が説くこと
五至志詩礼楽哀相成相生志気塞於天地
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説苑・修文孔子曰く、「體無きの禮は、敬なり。服無きの喪は、憂なり。聲無きの樂は、懽なり。言わずして信あり、動かずして威あり、施さずして仁あり。志なり。鐘鼓の聲、怒りて之を擊てば則ち武、憂いて之を擊てば則ち悲、喜びて之を擊てば則ち樂。其の志變ずれば、其の聲も亦變ず。其の志誠なれば、金石に通ず、而るを況んや人をや?」と。