孔子家語 / 六本
孔子曰:「無體之禮,敬也;無服之喪,哀也;無聲之樂,歡也。不言而信,不動而威,不施而仁。誌夫鐘之音:怒而擊之則武,憂而擊之則悲。其志變者,聲亦隨之。故誌誠感之,通於金石;而況人乎?」
新字:孔子曰:「無体之礼,敬也;無服之喪,哀也;無声之楽,歓也。不言而信,不動而威,不施而仁。誌夫鐘之音:怒而擊之則武,憂而擊之則悲。其志変者,声亦随之。故誌誠感之,通於金石;而況人乎?」
書き下し
孔子曰わく、「体無きの礼は、敬なり。服無きの喪は、哀なり。声無きの楽は、歓なり。言わずして信ぜられ、動かずして威あり、施さずして仁あり。夫れ鐘の音を誌るせ。怒りて之れを撃てば則ち武、憂いて之れを撃てば則ち悲し。其の志変ずれば、声も亦た之れに随う。故に誌誠の之れを感ぜしむるや、金石に通ず。而るを況んや人においてをや。」
現代語訳
孔子は言った。「形式(儀礼の作法)を伴わなくても心のこもった敬いは礼であり、喪服を着なくても心からの哀しみは喪であり、音楽の音を伴わなくても心の底からの喜びは楽である。言葉にせずとも信頼され、動かずとも威厳があり、ことさら施さなくても仁がある、というのが理想である。あの鐘の音を思い出してみよ。怒りながら打てば猛々しい音になり、憂いながら打てば悲しい音になる。心の在り方が変われば、出てくる音もそれに従って変わる。だから、心の底からの真心が物事を動かせば、金属や石さえも感応するのだ。ましてや人間においてはなおさらではないか。」
解説
礼・喪・楽の本質は形式ではなく心にあるという、孔子の礼楽観の核心を示す章です。「体無きの礼」「服無きの喪」「声無きの楽」という逆説的な表現によって、外面的な作法や道具立てがなくても、内なる敬意・哀しみ・喜びが本物であれば、それこそが礼・喪・楽の実質であると説いています。さらに鐘の音の比喩を用い、打つ人の心の状態がそのまま音色に表れることを示し、誠実な心はモノにさえ感応を及ぼすのだから、まして人の心にはなおさら伝わると結んでいます。形式にとらわれがちな現代の儀礼や礼儀作法においても、まず心が伴っているかを問い直す視点を与えてくれる一節です。
この章句が説くこと
礼喪楽誠鐘の音
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