孔子家語 / 子路初見
孔子為魯司寇,見季康子,康子不悅。孔子又見之。宰予進曰:「昔予也常聞諸夫子曰:『王公不我聘則弗動。』今夫子之於司寇也日少,而屈節數矣。不可以已乎?」孔子曰:「然。魯國以眾相陵,以兵相暴之日久矣;而有司不治,則將亂也。其聘我者,孰大於是哉?」魯人聞之曰:「聖人將治,何不先自遠刑罰?」自此之後,國無爭者。
新字:孔子為魯司寇,見季康子,康子不悅。孔子又見之。宰予進曰:「昔予也常聞諸夫子曰:『王公不我聘則弗動。』今夫子之於司寇也日少,而屈節数矣。不可以已乎?」孔子曰:「然。魯国以眾相陵,以兵相暴之日久矣;而有司不治,則将乱也。其聘我者,孰大於是哉?」魯人聞之曰:「聖人将治,何不先自遠刑罰?」自此之後,国無争者。
書き下し
孔子魯の司寇と為り、季康子に見ゆるも、康子悦ばず。孔子又之に見ゆ。宰予進みて曰わく、「昔予や常に諸を夫子に聞く、『王公我を聘せざれば則ち動かず』と。今夫子の司寇に於けるや日少なくして、節を屈すること数なり。以て已む可からざるか。」孔子曰わく、「然り。魯国衆を以て相い陵ぎ、兵を以て相い暴かすの日久し。而して有司治めざれば、則ち将に乱れんとす。其の我を聘する者、孰か是れより大ならん。」魯人之を聞きて曰わく、「聖人将に治めんとす、何ぞ先ず自ら刑罰を遠ざけざる。」此より後、国に争う者無し。
現代語訳
孔子が魯の司寇(司法長官)となり、季康子に面会したが、康子は不機嫌であった。孔子はそれでもまた彼に面会した。宰予が進み出て言った。「以前、私はいつも先生からこう聞いておりました。『王公が礼を尽くして招かなければ動かない』と。ところが今、先生が司寇として実際に仕事をされる日は少ないのに、自ら節を屈してまで何度も面会されています。もうおやめになってはいかがでしょうか。」孔子は言った。「その通りだ。しかし魯の国では、強い者が弱い者を凌ぎ、武力によって互いを脅かし合う状態が長く続いている。それなのに役人が取り締まらなければ、国は乱れてしまうだろう。私を招く理由として、これより大きなものがあろうか。」魯の人々はこれを聞いて言った。「聖人がまさに国を治めようとしている。ならばどうして自ら先に刑罰から遠ざかろうとしないのか(=あえて身を低くして事に当たろうとするのだろう)。」これ以後、国の中で争う者はいなくなった。
解説
この章句が説くこと
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説苑・政理孔子、季康子に見ゆるも、康子説ばず。孔子又之に見ゆ。宰予曰く、「吾之を夫子に聞く、『王公聘せざれば動かず』と。今吾子の司寇に見ゆるや少しく数なり。」孔子曰く、「魯国衆を以て相陵ぎ、兵を以て相暴すること日久し。而るに有司治めず。我を聘する者孰か大ならん。」是に於て魯人之を聞きて曰く、「聖人将に治めんとするに、何ぞ先に自ら刑罰を為さざるや。」是より之後、国に争う者無し。孔子弟子に謂いて曰く、「山を違ること十里、蟪蛄の声猶尚存すのみ。政事は膺に如くもの無し。」古の魯の俗、塗里の間、羅門の羅、収門の魚、独り礼を得たり。是を以て孔子之を善しとす。夫れ塗里の間は、富家貧しき者の為に出す。羅門の羅は、親有る者は多く取り、親無き者は少なく取る。収門の漁は、親有る者は巨きなるを取り、親無き者は小なるを取る。
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孔子家語・始誅孔子魯の司寇と為り、相の事を摂行し、喜色有り。仲由問いて曰く、「由聞く、君子禍至るも懼れず、福至るも喜ばず、と。今夫子位を得て喜ぶは、何ぞや。」孔子曰く、「然り、是の言有るなり。貴を以て人に下るを楽しむと曰わずや。」
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孔子家語・始誅孔子魯の大司寇と為り、父子訟うる者有り。夫子同狴に之を執う。三月別たず、其の父止めんことを請う。夫子之を赦す。季孫之を聞き、悦ばずして曰く、「司寇余を欺けり。曩に余に告げて曰く、『国家必ず孝を以て先とす』と。余今一の不孝を戮して以て民に孝を教うるは、亦た可ならずや。而るに又之を赦すは、何ぞや。」冉有以て孔子に告ぐ。子喟然として嘆じて曰く、「嗚呼、上其の道を失いて、其の下を殺すは、理に非ざるなり。孝を教えずして其の獄を聴くは、是れ不辜を殺すなり。三軍大敗するも、斬るべからざるなり。獄犴治まらざるも、刑すべからざるなり。何となれば、上の教之を行わざるは、罪民に在らざるが故なり。夫れ令を慢りて誅を謹むは、賊なり。斂を征するに時無きは、暴なり。試みずして成るを責むるは、虐なり。政此の三者無くして、然る後刑即くべきなり。書に云う、『義刑、義殺庸うる勿かれ、以て汝の心に即けよ、惟だ未だ事を慎むこと有らずと曰え』と。必ず教えて而る後に刑すを言うなり。既に道徳を陳べて以て先ず之に服せしめ、而して猶お可ならざれば、賢を尚びて以て之を勧め、又可ならざれば、即ち之を廃し、又可ならざれば、而る後に威を以て之を憚らしむ。是の若くすること三年にして、百姓正し。其れ邪民の化に従わざる者有れば、然る後に之を待つに刑を以てすれば、則ち民咸な罪を知る。詩に云う、『天子是れ毗け、民をして迷わざらしむ』と。是を以て威厳にして試みず、刑錯きて用いず。今の世は則ち然らず、其の教を乱して其の刑を繁くし、民をして迷惑して焉に陥らしめ、又従いて之を制す。故に刑彌いよ繁くして、盗勝えず。夫れ三尺の限、空車も登ること能わざる者は何ぞや、峻なるが故なり。百仞の山、重載も陟る者は何ぞや、陵遅なるが故なり。今世俗の陵遅久し、刑法有りと雖も、民踰ゆること勿からんや。」
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荀子・宥坐篇孔子、魯の司寇(しこう)と為る。父子にして訟(うった)うる者有り。孔子之を拘(とら)え、三月別(わか)たず。其の父止(や)めんことを請う。孔子之を舎(ゆる)す。季孫之を聞き、説(よろこ)ばずして曰く、「是の老(ろう)や、予を欺く。予に語りて曰く、国家を為(おさ)むるには必ず孝を以てすと。今、一人を殺して不孝を戮(りく)せんとし、又之を舎す」と。冉子以て告ぐ。孔子慨然として歎じて曰く、「嗚呼、上之を失いて、下之を殺す。其れ可ならんや。其の民を教えずして、其の獄を聴くは、辜(つみ)なきを殺すなり。三軍大いに敗るるも、斬るべからず。獄犴(ごくかん)治まらざるも、刑すべからず。罪、民に在らざるが故なり。令を嫚(おこた)りて誅を謹(きび)しくするは、賊なり。今、生ずるや時有り、斂(あつ)むるや時無きは、暴なり。教えずして成功を責むるは、虐なり。此の三者を已(や)めて、然る後に刑即(つ)くべきなり。書に曰く、『義刑義殺、庸(もっ)て即(つ)くこと勿かれ、予維(こ)れ曰く未だ順事有らずと』と。教えを先にするを言うなり。故に先王は既に之に陳(の)ぶるに道を以てし、上、先ず之に服す。若し可ならざれば、賢を尚(たっと)びて以て之を綦(きわ)む。若し可ならざれば、不能を廃して以て之を単(つ)くす。綦(きわ)むること三年にして百姓、風に従う。邪民従わざれば、然る後に之を俟(ま)つに刑を以てすれば、則ち民、罪を知らん。詩に曰く、『尹氏大師、維(こ)れ周の氐(もと)、国の均(きん)を秉(と)り、四方是(こ)れ維(つな)ぐ。天子是れ庳(たす)け、民をして迷わざらしむ』と。是を以て威、厲(はげ)しくして試みず、刑、錯(お)きて用いず。此れの謂いなり。今の世は則ち然らず。其の教えを乱し、其の刑を繁くす。其の民迷惑して墮(お)つれば、則ち従って之を制す。是を以て刑弥(いよいよ)繁くして、邪勝たず。三尺の岸すら虚車(きょしゃ)登ること能わず。百仞の山も、負を任ずる車、登る。何ぞ則ち、陵遅(りょうち)なるが故なり。数仞の牆(かき)すら民踰(こ)えず。百仞の山も豎子(じゅし)馮(よ)りて游ぶは、陵遅なるが故なり。今の世、陵遅すること已(すで)に久し。而して能く民をして踰ゆること勿からしめんや。詩に曰く、『周道は砥(と)の如く、其の直きこと矢の如し。君子の履(ふ)む所、小人の視る所。眷焉(けんえん)として之を顧み、潸焉(さんえん)として涕(なみだ)を出だす』と。豈に哀しからずや」と。
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孔子家語・相魯司空より魯の大司寇と為る。法を設けて用いず、奸民無し。定公斉侯と夾谷に会す。孔子相の事を摂して曰く、「臣聞く、文事有る者は必ず武備有り。武事有る者は必ず文備有り、と。古は諸侯疆を出づるに、必ず官を具えて以て従う。請う左右の司馬を具えん。」定公之に従う。会する所に至りて壇を為り、土階三等、遇礼を以て相見う。揖譲して登り、献酢既に畢りて、斉萊人を使い兵を以て鼓譟して定公を劫かす。孔子階を歴て進み、公を以て退き、曰く、「士、之を兵せよ。吾が両君好を為すに、裔夷の俘、敢えて兵を以て之を乱す、斉君の諸侯に命ずる所以に非ざるなり。裔は夏を謀らず、夷は華を乱さず、俘は盟を干さず、兵は好を偪めず。神に於て不祥と為し、徳に於て愆義と為し、人に於て失礼と為す。君必ず然らず。」斉侯心怍じ、麾きて之を避けしむ。頃有りて、斉宮中の楽を奏し、俳優侏儒前に戯る。孔子趨り進みて階を歴て上り、一等を尽くさずして曰く、「匹夫諸侯を熒侮する者は、罪誅に応ず。請う右司馬速やかに焉を刑せよ。」是に於て侏儒を斬り、手足処を異にす。斉侯懼れ、慚色有り。将に盟わんとするに、斉人載書を加えて曰く、「斉師境を出づるに、兵車三百乗を以て我に従わざる者は、此の盟の如き有らん。」孔子茲無還をして対えしめて曰く、「而も我が汶陽の田を返さずして、吾以て命に供せしめば、亦た之の如くせん。」斉侯将に享礼を設けんとす。孔子梁丘拠に謂いて曰く、「斉魯の故、吾子何ぞ聞かざる。事既に成れり。而して又之を享す、是れ執事を勤しますなり。且つ犠象は門を出でず、嘉楽は野に合わせず。享して既に具われば、是れ礼を棄つるなり。若し其れ具わらざれば、是れ秕稗を用うるなり。秕稗を用うれば、君辱められ、礼を棄つれば、名悪し。子盍ぞ之を図らざる。夫れ享は、徳を昭らかにする所以なり。昭らかならずんば、其れ已むに如かず。」乃ち果たさずして享せず。斉侯帰りて、其の群臣を責めて曰く、「魯は君子の道を以て其の君を輔け、而して子独り夷狄の道を以て寡人に教え、罪を得しむ。」是に於て乃ち侵す所の魯の四邑、及び汶陽の田を帰す。
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孔子家語・子路初見孔子魯に相たり。斉人其の将に覇たらんとするを患い、其の政を敗らんと欲す。乃ち好き女子八十人を選び、衣するに文飾を以てして容璣を舞わしめ、及び文馬四十駟を、以て魯君に遺る。女楽を陳べ、文馬を魯城の南高門の外に列ね、季桓子微服して之を観ること再三、将に受けんとす。魯君に告げて周道の遊観を為すと為し、之を観ること終日、政事を怠る。子路孔子に言いて曰わく、「夫子以て行く可し。」孔子曰わく、「魯今且に郊せんとす、若し膰を大夫に致さば、是れ則ち未だ其の常を廃せざるなり、吾猶お以て止まる可し。」桓子既に女楽を受け、君臣淫荒し、三日国政を聴かず、郊にも又膰俎を致さず、孔子遂に行く。郭に宿り、師を屯めて以て送りて曰わく、「夫子は罪に非ざるなり。」孔子曰わく、「吾歌う可きか。歌に曰わく、『彼の婦人の口、以て出走す可し。彼の婦人の請い、以て死敗す可し。優なるかな遊なるかな、聊か以て歳を卒えん』と。」