説苑 / 政理
孔子見季康子,康子未說,孔子又見之,宰予曰:「吾聞之夫子曰:『王公不聘不動。』今吾子之見司寇也少數矣。」孔子曰:「魯國以眾相陵,以兵相暴之日久矣,而有司不治,聘我者孰大乎?」於是魯人聞之曰:「聖人將治,何以不先自為刑罰乎?」自是之後,國無爭者。孔子謂弟子曰:「違山十里,蟪蛄之聲猶尚存耳,政事無如膺之矣。」古之魯俗,塗里之間,羅門之羅,收門之魚,獨得於禮,是以孔子善之夫塗里之間,富家為貧者出;羅門之羅,有親者取多,無親者取少;收門之漁,有親者取巨,無親者取小。
新字:孔子見季康子,康子未説,孔子又見之,宰予曰:「吾聞之夫子曰:『王公不聘不動。』今吾子之見司寇也少数矣。」孔子曰:「魯国以衆相陵,以兵相暴之日久矣,而有司不治,聘我者孰大乎?」於是魯人聞之曰:「聖人将治,何以不先自為刑罰乎?」自是之後,国無争者。孔子謂弟子曰:「違山十里,蟪蛄之声猶尚存耳,政事無如膺之矣。」古之魯俗,塗里之間,羅門之羅,収門之魚,独得於礼,是以孔子善之夫塗里之間,富家為貧者出;羅門之羅,有親者取多,無親者取少;収門之漁,有親者取巨,無親者取小。
書き下し
孔子、季康子に見ゆるも、康子説ばず。孔子又之に見ゆ。宰予曰く、「吾之を夫子に聞く、『王公聘せざれば動かず』と。今吾子の司寇に見ゆるや少しく数なり。」孔子曰く、「魯国衆を以て相陵ぎ、兵を以て相暴すること日久し。而るに有司治めず。我を聘する者孰か大ならん。」是に於て魯人之を聞きて曰く、「聖人将に治めんとするに、何ぞ先に自ら刑罰を為さざるや。」是より之後、国に争う者無し。孔子弟子に謂いて曰く、「山を違ること十里、蟪蛄の声猶尚存すのみ。政事は膺に如くもの無し。」古の魯の俗、塗里の間、羅門の羅、収門の魚、独り礼を得たり。是を以て孔子之を善しとす。夫れ塗里の間は、富家貧しき者の為に出す。羅門の羅は、親有る者は多く取り、親無き者は少なく取る。収門の漁は、親有る者は巨きなるを取り、親無き者は小なるを取る。
現代語訳
孔子が季康子に謁見したが、季康子は喜ばなかった。それでも孔子はまた季康子に会いに行った。宰予が言った。「私は先生からこう聞いております、『王公から招聘されなければ自分から動かない』と。それなのに、あなた様が司寇(季康子)にお会いになる回数は少々多すぎるのではないでしょうか。」孔子は言った。「魯の国では、多数の者が少数の者を陵ぎ、武力で互いに暴虐を働くことが長く続いている。それなのに担当の役人はこれを治めようとしない。私を招聘することよりも大事なことがあろうか。」そこで魯の人々はこれを聞いて言った。「聖人がまさに世を治めようとしているのに、なぜ先に自分から動かないのか。」これ以後、国に争う者はいなくなった。孔子は弟子たちに言った。「山から十里離れていても、蟪蛄(せみ)の声はなお耳に残っているものだ。政治というものは、心にしっかりと刻みつけ実践することに勝るものはない。」昔の魯の風習では、村里の間で行われる助け合い、羅門(網場)での獲物の分配、収門(漁場)での魚の分配だけは、礼にかなったものであった。それゆえ孔子はこれを良しとした。村里の間の助け合いとは、富める家が貧しい者のために物を出すことである。羅門の網の獲物は、身寄りのある者は多く取り、身寄りのない者は少なく取る。収門の漁では、身寄りのある者は大きな魚を取り、身寄りのない者は小さな魚を取る。
解説

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孔子家語・子路初見孔子魯の司寇と為り、季康子に見ゆるも、康子悦ばず。孔子又之に見ゆ。宰予進みて曰わく、「昔予や常に諸を夫子に聞く、『王公我を聘せざれば則ち動かず』と。今夫子の司寇に於けるや日少なくして、節を屈すること数なり。以て已む可からざるか。」孔子曰わく、「然り。魯国衆を以て相い陵ぎ、兵を以て相い暴かすの日久し。而して有司治めざれば、則ち将に乱れんとす。其の我を聘する者、孰か是れより大ならん。」魯人之を聞きて曰わく、「聖人将に治めんとす、何ぞ先ず自ら刑罰を遠ざけざる。」此より後、国に争う者無し。
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孔子家語・子路初見孔子宰予に謂いて曰わく、「山を違ること十里、蟪蛄の声、猶お耳に在り、故に政事は之に応ずるに如くは莫し。」
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孔子家語・正論解季康子、一井の田を以て法賦を出ださんと欲し、孔子に訪わしむ。子曰く、「丘識らざるなり。」冉有三たび発して卒に曰く、「子は国老為り、子を待ちて行わんとす、之を若何ぞ子の言わざるや。」孔子対えず、而して私かに冉有に曰く、「求、汝来たれ。汝聞かざるか。先王土を制するに、田を借るに力を以てし、其の遠近を底む。里を賦するに入を以てし、其の有無を量る。力を任ずるに夫を以てし、其の老幼を議す。是に於て鰥寡孤疾老いたる者は、軍旅の出づる有れば則ち之を徴し、無ければ則ち已む。其の歳収は、田一井、禾秉を獲、缶米芻。是を過ぎずして、先王以て之を足れりと為す。君子の行いは、必ず礼に度る。施すには、其の厚きを取り、事には、其の中を挙げ、歛むるには、其の薄きに従う。是くの若くならば已みなん、丘も亦た足れりとせん。礼に度らずして、貪冒厭くこと無くんば、則ち田を賦すと雖も、将に足らざる有らんとす。且つ子孫若し之を行うを以て法を取らんとせば、則ち周公の典有り。若し法を犯さんと欲せば、則ち茍且に之を行わん、又た何ぞ訪わんや。」
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説苑・政理魯に父子訟うる者有り。康子曰く、「之を殺せ。」孔子曰く、「未だ殺すべからざるなり。夫れ民、子父の訟うるの不善なるを知らざること久し。是れ則ち上の過ちなり。上に道有らば、是の人亡からん。」康子曰く、「夫れ民を治むるに孝を以て本と為す。今一人を殺して以て不孝を戮せば、亦た可ならずや。」孔子曰く、「不孝にして之を誅せば、是れ辜無きを虐殺するなり。三軍大敗すとも誅すべからず、獄訟治まらずとも刑すべからず。上、之が教を陳べて先ず之に服せば、則ち百姓風に從わん。躬ら行いて從わずして后に之を俟つに刑を以てせば、則ち民罪を知らん。夫れ一仞の牆、民踰ゆる能わず、百仞の山、童子升りて遊ぶは、陵遲なるが故なり。今是れ仁義の陵遲すること久し。能く民の踰えざるを謂わんや。詩に曰く、『民をして迷わざらしめよ』と。昔者、君子は其の百姓を導きて迷わざらしむ。是を以て威厲しくして至らず、刑錯きて用いず。」是に於て訟うる者之を聞き、乃ち訟うる無きを請う。
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史記 孔子世家夫れ名正しからざれば則ち言順はず、言順はざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中らず、刑罰中らざれば則ち民手足を錯く所無し。夫れ君子は之を為せば必ず名づくべく、之を言へば必ず行ふべし。君子は其の言に於て、苟くもする所無きのみ」と。其の明年、冉有季氏の為に師を将ゐ、斉と郎に戦ひ、之に克つ。季康子曰く、「子の軍旅に於けるや、之を学べるか、之を性とせるか」と。冉有曰く、「之を孔子に学べり」と。季康子曰く、「孔子は何如なる人ぞや」と。対へて曰く、「之を用ふれば名有り。之を百姓に播き、諸を鬼神に質すも憾み無し。求の此の道に至るを求むれば、千社を累ぬと雖も、夫子は利とせざるなり」と。康子曰く、「我之を召さんと欲す、可ならんか」と。対へて曰く、「之を召さんと欲せば、則ち小人を以て之を固むること毋くんば、則ち可なり」と。而して衛の孔文子将に太叔を攻めんとし、策を仲尼に問ふ。仲尼辞して知らずとし、退きて載することを命じて行き、曰く、「鳥は能く木を択ぶ、木豈に能く鳥を択ばんや」と。文子固く止む。会々季康子公華・公賓・公林を逐ひ、幣を以て孔子を迎ふ、孔子魯に帰る。孔子の魯を去ること凡そ十四歳にして魯に反る。魯の哀公政を問ふ、対へて曰く、「政は臣を選ぶに在り」と。季康子政を問ふ、曰く、「直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、則ち枉れる者直し」と。康子盗を患ふ、孔子曰く、「苟も子の欲せざれば、之を賞すと雖も窃まず」と。然れども魯終に孔子を用ふる能はず、孔子も亦た仕ふるを求めず。孔子の時、周室微にして礼楽廃れ、詩書缺く。三代の礼を追跡し、書伝を序し、上は唐虞の際を紀し、下は秦繆に至るまで、其の事を編次す。曰く、「夏の礼は吾能く之を言へども、杞は徴とするに足らざるなり。殷の礼は吾能く之を言へども、宋は徴とするに足らざるなり。足らば、則ち吾能く之を徴とせん」と。殷夏の損益する所を観て、曰く、「後百世と雖も知るべきなり、一文一質を以てす。周は二代に監みる、郁郁乎として文なるかな。
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国語・魯語下季康子田賦(でんぷ)を以てせんと欲し、冉有(ぜんゆう)をして諸(これ)を仲尼に訪(と)わしむ。仲尼対えず。冉有に私して曰く、「求来たれ。女(なんじ)聞かざるか。先王の土を制するや、田を籍(せき)するに力を以てして、其の遠邇(えんじ)を砥(たいら)にす。里に賦するに入を以てして、其の有無を量る。力を任ずるに夫を以てして、其の老幼を議す。是に於いてか鰥(かん)・寡・孤・疾有り。軍旅の出有れば則ち之を徴し、無ければ則ち已む。其の歳、田一井を収むるに、稯禾(そうか)・秉芻(へいすう)・缶米(ふべい)を出だす。是に過ぎざるなり。先王以て足れりと為す。若し子季孫其の法を欲せば、則ち周公の籍有り。若し法を犯さんと欲せば、則ち苟(いやしく)もして賦せよ。又た何ぞ訪わん」と。