孔子家語 / 子路初見
孔子相魯。齊人患其將霸,欲敗其政。乃選好女子八十人,衣以文飾而舞容璣,及文馬四十駟,以遺魯君。陳女樂,列文馬於魯城南高門外,季桓子微服?觀之再三,將受焉。告魯君為周道遊觀,觀之終日,怠於政事。子路言於孔子曰:「夫子可以行矣。」孔子曰:「魯今且郊,若致膰於大夫,是則未廢其常,吾猶可以止也。」桓子既受女樂,君臣淫荒,三日不聽國政,郊又不致膰俎,孔子遂行。宿於郭,屯師以送曰:「夫子非罪也。」孔子曰:「吾歌可乎?歌曰:『彼婦人之口,可以出走;彼婦人之請,可以死敗。優哉遊哉,聊以卒歲。』」
新字:孔子相魯。斉人患其将覇,欲敗其政。乃選好女子八十人,衣以文飾而舞容璣,及文馬四十駟,以遺魯君。陳女楽,列文馬於魯城南高門外,季桓子微服?観之再三,将受焉。告魯君為周道遊観,観之終日,怠於政事。子路言於孔子曰:「夫子可以行矣。」孔子曰:「魯今且郊,若致膰於大夫,是則未廃其常,吾猶可以止也。」桓子既受女楽,君臣淫荒,三日不聴国政,郊又不致膰俎,孔子遂行。宿於郭,屯師以送曰:「夫子非罪也。」孔子曰:「吾歌可乎?歌曰:『彼婦人之口,可以出走;彼婦人之請,可以死敗。優哉遊哉,聊以卒歳。』」
書き下し
孔子魯に相たり。斉人其の将に覇たらんとするを患い、其の政を敗らんと欲す。乃ち好き女子八十人を選び、衣するに文飾を以てして容璣を舞わしめ、及び文馬四十駟を、以て魯君に遺る。女楽を陳べ、文馬を魯城の南高門の外に列ね、季桓子微服して之を観ること再三、将に受けんとす。魯君に告げて周道の遊観を為すと為し、之を観ること終日、政事を怠る。子路孔子に言いて曰わく、「夫子以て行く可し。」孔子曰わく、「魯今且に郊せんとす、若し膰を大夫に致さば、是れ則ち未だ其の常を廃せざるなり、吾猶お以て止まる可し。」桓子既に女楽を受け、君臣淫荒し、三日国政を聴かず、郊にも又膰俎を致さず、孔子遂に行く。郭に宿り、師を屯めて以て送りて曰わく、「夫子は罪に非ざるなり。」孔子曰わく、「吾歌う可きか。歌に曰わく、『彼の婦人の口、以て出走す可し。彼の婦人の請い、以て死敗す可し。優なるかな遊なるかな、聊か以て歳を卒えん』と。」
現代語訳
孔子が魯の宰相を務めていた。斉の人々は魯が覇者となるのを恐れ、その政治を乱そうと図った。そこで美しい女性八十人を選び、豪華な衣装を着せて舞を舞わせ、加えて美しい馬四十頭を、魯の君主に贈った。女楽団を並べ立て、美しい馬を魯の都城の南の高門の外に並べると、季桓子はお忍びの姿でこれを何度も見に行き、受け取ろうとしていた。魯の君主には周を巡る視察であると偽って告げ、一日中これを見物し、政務を怠った。子路が孔子に言った。「先生、もう出立なさるべきです。」孔子は言った。「魯はもうすぐ郊祭を行おうとしている。もしそこで祭肉が大夫たちに分け与えられるなら、それはまだ通常の礼が廃れていないということなので、私はなお留まっていられる。」季桓子はついに女楽を受け取り、君主も臣下も享楽にふけって、三日間政務を聞かず、郊祭でも祭肉を大夫に分け与えなかったので、孔子はついに魯を去った。郊外の宿場に泊まると、兵士たちが陣を敷いて見送り、「先生に罪はございません」と言った。孔子は言った。「私は歌ってもよいだろうか。歌にこう詠む。『あの女の口車には、国を追われることもある。あの女のねだりには、身を滅ぼすこともある。ゆったりとして、のんびりと、こうして年月を過ごすとしよう』と。」
解説

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史記 孔子世家桓子卒に斉の女楽を受け、三日政を聴かず。郊して、又膰俎を大夫に致さず。孔子遂に行き、屯に宿す。而して師己送りて曰く、「夫子は則ち罪に非ず」と。孔子曰く、「吾歌はんこと可ならんか」と。歌ひて曰く、「彼の婦の口、以て出走すべし。彼の婦の謁、以て死敗すべし。蓋し優なるかな游なるかな、維れ以て歳を卒へん」と。師己反る、桓子曰く、「孔子亦た何をか言へる」と。師己実を以て告ぐ。桓子喟然として嘆じて曰く、「夫子我を罪するに羣婢の故を以てするなるかな」と。孔子遂に衛に適き、子路の妻の兄顔濁鄒の家に主たり。衛の霊公孔子に問ふ、「魯に居りて禄を得ること幾何ぞ」と。対へて曰く、「粟六万を奉ず」と。衛人も亦た粟六万を致す。居ること之を頃くして、或ひと孔子を衛の霊公に譖す。霊公、公孫余仮をして一たび出で一たび入らしむ。孔子罪を獲んことを恐れ、居ること十月にして、衛を去る。将に陳に適かんとし、匡を過ぐ、顔刻僕為り、其の策を以て之を指して曰く、「昔吾此に入りしは、彼の缺けたるに由るなり」と。匡人之を聞き、以て魯の陽虎と為す。陽虎嘗て匡人に暴す、匡人是に於て遂に孔子を止む。孔子の状陽虎に類す、拘へらるること五日。顔淵後る、子曰く、「吾汝を以て死せりと為す」と。顔淵曰く、「子在す、回何ぞ敢へて死せん」と。匡人孔子を拘ふること益々急なり、弟子懼る。孔子曰く、「文王既に没す、文茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者斯の文に与るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何せん」と。孔子、従者をして甯武子の臣と為りて衛に於てせしめ、然る後に去るを得たり。去りて即ち蒲を過ぐ。月余にして、衛に反り、蘧伯玉の家に主たり。霊公の夫人に南子なる者有り、人をして孔子に謂はしめて曰く、「四方の君子の辱くも寡君と兄弟為らんと欲する者は、必ず寡小君に見ゆ。寡小君見えんことを願ふ」と。孔子辞謝するも、已むを得ずして之に見ゆ。夫人絺帷の中に在り。孔子門に入り、北面して稽首す。
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史記 孔子世家夏、斉の大夫黎鉏景公に言ひて曰く、「魯孔丘を用ふ、其の勢斉を危ふくす」と。乃ち使をして魯に告げしめて好会を為し、夾谷に会す。魯の定公且に乗車を以て好しく往かんとす。孔子相の事を摂し、曰く、「臣聞く、文事有る者は必ず武備有り、武事有る者は必ず文備有りと。古は諸侯疆を出づれば、必ず官を具へて以て従ふ。請ふ左右の司馬を具へん」と。定公曰く、「諾」と。左右の司馬を具ふ。斉侯に夾谷に会し、壇位を為る、土階三等、会遇の礼を以て相見え、揖譲して登る。献酬の礼畢はり、斉の有司趨りて進みて曰く、「請ふ四方の楽を奏せん」と。景公曰く、「諾」と。是に於て旍旄羽袚矛戟剣撥、鼓噪して至る。孔子趨りて進み、階を歴て登り、一等を尽くさず、袂を挙げて言ひて曰く、「吾が両君好会を為す、夷狄の楽何為れぞ此に於てする。請ふ有司に命ぜよ」と。有司之を卻くるも、去らず、則ち左右晏子と景公とを視る。景公心に怍ぢ、麾きて之を去らしむ。頃有りて、斉の有司趨りて進みて曰く、「請ふ宮中の楽を奏せん」と。景公曰く、「諾」と。優倡侏儒戯を為して前む。孔子趨りて進み、階を歴て登り、一等を尽くさず、曰く、「匹夫にして諸侯を営惑する者は罪誅に当たる。請ふ有司に命ぜよ」と。有司法を加へ、手足処を異にす。景公懼れて動き、義の若かざるを知り、帰りて大いに恐れ、其の羣臣に告げて曰く、「魯は君子の道を以て其の君を輔く、而るに子は独り夷狄の道を以て寡人に教へ、罪を魯君に得しむ、之を為すこと奈何」と。有司進み対へて曰く、「君子は過ち有れば則ち謝するに質を以てし、小人は過ち有れば則ち謝するに文を以てす。君若し之を悼まば、則ち謝するに質を以てせよ」と。是に於て斉侯乃ち侵す所の魯の鄆・汶陽・亀陰の田を帰して以て過ちを謝す。定公十三年夏、孔子定公に言ひて曰く、「臣は甲を蔵すること無く、大夫は百雉の城毋し」と。
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