孔子家語 / 顏回
孔子謂顏回曰:「人莫不知此道之美,而莫之御也。莫之為也,何居?為聞者,盍日思也夫?」
書き下し
孔子顏回に謂いて曰わく、「人此の道の美なるを知らざる莫きも、之を御する莫きなり。之を為す莫きは、何の居ぞや。聞く者と為れば、盍ぞ日に思わざらんや。」
現代語訳
孔子が顔回に言った。「人は誰しもこの道の美しさを知らないわけではない。だが、それを実際に身に行き渡らせる者はいない。誰も実践しないのは、いったいどうしたことか。せっかく道について聞いた者であるならば、どうして日々それを思い続けないのか。」
解説
人は誰しも「道」の美しさや正しさを理解していながら、それを実際の行いに移せていないという現実を、孔子が嘆いた言葉です。知識として理解することと、それを日々の生活の中で実践し続けることの間には大きな隔たりがあり、孔子はその原因を、学んだことを絶えず思い返し反芻する日々の心がけの不足に見ています。「聞く者と為れば、盍ぞ日に思わざらんや」という一言は、知ったことを一度きりで終わらせず、日々繰り返し自分に問い直すことの重要性を説いています。知識を得ることよりも、それを継続的に意識し続けることの方が難しく、また重要であるという指摘は、学びを実践に結びつけたい現代人にもそのまま当てはまります。
この章句が説くこと
孔子顔回知行日々の省察実践
関連する章句
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徒然草・第129段顔囘は、志人に労を施さじとなり。すべて人を苦しめ、物を虐ぐる事、賎しき民の志をも奪ふべからず。又幼き子を賺し嚇し、言ひ辱しめて興ずることあり。大人しき人は、まことならねば事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥しく、あさましき思ひ、誠に切なるべし。これを悩して興ずる事、慈悲の心にあらず。大人しき人の、喜び怒り哀れび楽しぶも、皆虚妄なれども、誰か実有の相に著せざる。身を破るよりも、心を痛ましむるは、人を害ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少なし。薬を飮みて汗を求むるには、験なき事あれども、一旦恥ぢ恐るゝことあれば、かならず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて、白頭の人となりし例なきにあらず。
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論語 雍也篇哀公問う、弟子孰か学を好むと為す。孔子対えて曰く、顔回という者あり、学を好む。怒りを遷さず、過ちを二たびせず。不幸短命にして死せり。今は則ち亡し、未だ学を好む者を聞かざるなり。
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論語 公冶長篇子曰く、『回や、その心三月仁に違わず。其の余は則ち日月至るのみ。』
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中庸子曰く、「回(かい)の人と為(な)りや、中庸を択び、一善を得れば、則ち拳拳(けんけん)服膺(ふくよう)して之を失わず」と。
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史記 仲尼弟子列伝顔回は、魯の人なり、字は子淵。孔子より少きこと三十歳。顔淵、仁を問ふ。孔子曰く、「己に克ち礼に復る、天下仁に帰す」と。孔子曰く、「賢なるかな回や、一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り、人は其の憂ひに堪へず、回や其の楽しみを改めず。回や愚なるが如し、退きて其の私を省みれば、亦た以て発するに足る、回や愚ならず。之を用ふれば則ち行ひ、之を捨つれば則ち蔵る、唯我と爾とのみ是れ有るかな」と。回、年二十九、髪尽く白くして蚤く死す。孔子之を哭して慟し、曰く、「吾に回有りて自り、門人益々親しむ」と。魯の哀公問ふ、「弟子は孰をか学を好むと為すか」と。孔子対へて曰く、「顔回なる者有り、学を好み、怒りを遷さず、過ちを貮たびせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し」と。
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説苑・辨物孔子晨(あした)に堂上に立ち、哭する者の声音甚だ悲しきを聞く。孔子琴を援(と)りて之を鼓す、其の音同じ。孔子出づるに、弟子吒(さ)する者有り。問う、「誰ぞや。」曰わく、「回なり。」孔子曰わく、「回何為(なんす)れぞ吒するや。」回曰わく、「今者哭する者有り、其の音甚だ悲し。独り死を哭するのみに非ず、又生きて離るる者を哭するなり。」孔子曰わく、「何を以て之を知るや。」回曰わく、「完山の鳥に似たり。」孔子曰わく、「何如(いかん)。」回曰わく、「完山の鳥四子を生み、羽翼已に成りて乃ち四海に離る。哀鳴して之を送るは、是れ往きて復た返らざればなり。」孔子人をして哭する者に問わしむ。哭する者曰わく、「父死して家貧しく、子を売りて以て之を葬らんとす、将に其れ与に別れんとするなり。」孔子曰わく、「善いかな、聖人なり。」