孔子家語 / 六本
曾子侍曰:「參昔常聞夫子三言,而未之能行也。夫子見人之一善,而忘其百非;是夫子之易事也。見人之有善,若己有之;是夫子之不爭也。聞善必躬行之,然後導之;是夫子之能勞也。學夫子之三言,而未能行,以自知終不及二子者也。」
新字:曽子侍曰:「参昔常聞夫子三言,而未之能行也。夫子見人之一善,而忘其百非;是夫子之易事也。見人之有善,若己有之;是夫子之不争也。聞善必躬行之,然後導之;是夫子之能労也。学夫子之三言,而未能行,以自知終不及二子者也。」
書き下し
曾子侍りて曰わく、「参昔常に夫子の三言を聞くも、未だ之れを行うこと能わざるなり。夫子人の一善を見て、其の百非を忘る。是れ夫子の事え易きなり。人の善有るを見て、己に有るが若くす。是れ夫子の争わざるなり。善を聞けば必ず躬ら之れを行い、然る後に之れを導く。是れ夫子の能く労するなり。夫子の三言を学ぶも、未だ行うこと能わず、以て自ら終に二子に及ばざるを知るなり。」
現代語訳
曾子が孔子のそばに控えて言った。「私は昔からいつも先生の三つの教えを聞いてきましたが、いまだにそれを実行することができません。先生は人の一つの善行を見ると、その百の欠点を忘れてしまいます。これが先生に仕えやすい理由です。人に善いところがあるのを見ると、まるで自分自身が持っているかのように喜びます。これが先生が人と争わない理由です。善いことを聞けば必ず自分から実行し、そのあとで人を導きます。これが先生がよく骨を折られる理由です。私は先生のこの三つの教えを学んでいますが、まだ実行することができず、そのため自分は結局ほかの弟子たちに及ばないのだと分かるのです。」
解説
曾子が孔子の日頃の振る舞いから見出した三つの美点(人の善を見て欠点を忘れる寛容さ、人の善を自分のことのように喜ぶ無私、善を聞けば自ら実行してから人を導く実践力)を語り、自分がまだそれに及ばないことを謙虚に告白する章です。ここで挙げられている三つはいずれも、理屈としては誰もが理解できても、実際に日々の振る舞いとして貫くのは難しい徳目です。曾子ほどの高弟であっても「未だ之れを行うこと能わず」と率直に自分の未熟さを認めている点に、学びに終わりがないという姿勢が表れています。他人の欠点より長所に目を向け、他人の善を自分事のように喜び、知ったことをまず自分で実行するという三つの心構えは、現代の人間関係やリーダーシップにおいても指針となるものです。
この章句が説くこと
曽子孔子寛容実践謙虚
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