孔子家語 / 弟子行
博無不學。其貌恭,其德敦。其言於人也,無所不信。其驕於人也,常以浩浩。是以眉壽,是曾參之行也。孔子曰:『孝,德之始也;悌,德之序也;信,德之厚也;忠,德之正也。參中夫四德者也,以此稱之。』
新字:博無不学。其貌恭,其徳敦。其言於人也,無所不信。其驕於人也,常以浩浩。是以眉寿,是曽参之行也。孔子曰:『孝,徳之始也;悌,徳之序也;信,徳之厚也;忠,徳之正也。参中夫四徳者也,以此称之。』
書き下し
博くして學ばざる無し。其の貌恭しく、其の德敦し。其の言、人に於けるや、信ぜざる所無し。其の人に於けるや、常に浩浩を以てす。是を以て眉壽なり、是れ曾參の行なり。孔子曰わく、『孝は德の始めなり、悌は德の序なり、信は德の厚きなり、忠は德の正しきなり。參は夫の四德に中る者なり、此を以て之を稱す。』
現代語訳
広く学んであらゆることを修めている。その容貌は恭しく、その徳は篤い。人と接するときには、信頼されないことがない。人に対しては、常におおらかで度量が広い。それゆえに長寿の相がある。これが曾参の人となりである。孔子は言った。『孝行は徳の始まりであり、悌(年長者を敬う心)は徳の順序であり、信は徳の厚みであり、忠は徳の正しさである。参はこの四つの徳をすべて兼ね備えている。だからこそ彼をこう称えるのだ。』と。
解説
曾参(曾子)は『孝経』の伝承者としても知られる弟子で、ここでは孝・悌・信・忠という四つの徳をすべて兼ね備えた人物として高く評価されています。孔子は「孝は徳の始め、悌は徳の順序、信は徳の厚み、忠は徳の正しさ」と、それぞれの徳の関係を整理したうえで、曾参をその体現者として称えます。徳目を個別に説くのではなく、互いに関連づけて体系として捉える視点は、人格を多面的に育てていくうえでの手がかりとなり、一つの美徳を伸ばすことが他の美徳とどう結びつくかを考えるきっかけを与えてくれます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
曽参孝悌忠信四徳人格孝経
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