孔子家語 / 儒行解
儒有不隕獲於貧賤,不充詘於富貴;不混君王,不累長上,不閔有司,故曰儒。今人之名儒也,忘常以儒相詬疾。」哀公既得聞此言也,言加信,行加敬。曰:「終歿吾世,弗敢復以儒為戲矣。」
新字:儒有不隕獲於貧賤,不充詘於富貴;不混君王,不累長上,不閔有司,故曰儒。今人之名儒也,忘常以儒相詬疾。」哀公既得聞此言也,言加信,行加敬。曰:「終歿吾世,弗敢復以儒為戯矣。」
書き下し
儒に貧賤に隕獲せられず、富貴に充詘せられず、君王を混さず、長上を累わさず、有司を閔えず有り。故に儒と曰う。今人の儒を名づくるや、常を忘れて儒を以て相い詬疾す。」哀公既に此の言を聞くを得るや、言信を加え、行敬を加う。曰く、「吾が世を歿うるまで、敢えて復た儒を以て戯れと為さじ。」
現代語訳
儒者は、貧しく身分が低くても志を失うことなく、富や高い身分を得ても浮かれて節度を失うことなく、君主を困惑させず、目上の者に迷惑をかけず、役人を煩わせることもありません。だからこそ「儒」と呼ばれるのです。ところが今の人々が「儒者」という言葉を使うときには、この本来の意味を忘れて、儒者という言葉を互いをそしり合う悪口として用いています。」哀公はこの一連の話を聞き終えると、言葉に一層の誠実さを加え、行いに一層の敬意を加えて、「私は生涯にわたって、決して二度と儒者を戯れの対象とはいたしません」と言った。
解説
長大な「儒行」列挙の締めくくりとして、貧富や地位の変化に動じず、周囲に迷惑をかけない生き方こそが「儒」の本質であると総括されます。そのうえで、当時すでに「儒」という言葉が本来の意味を離れ、互いを罵り合う蔑称として使われていた世相への孔子の嘆きが示されています。この言葉を聞いた哀公が態度を改め、「二度と儒者を戯れの対象にしない」と誓う場面で篇は結ばれ、正しい知識や敬意の欠如が、価値ある概念を軽んじる風潮を生むという構図は、現代においても、専門的な知識や職業への浅薄な偏見を戒める教えとして通じます。
この章句が説くこと
儒貧賤富貴哀公誤解