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後世への最大遺物 / 第二回・下女の手紙が本当の文学

私は感謝していつでも六厘差し出します(大笑)。それから七夕様がきますといつでも私のために七夕様に団子だの梨だの柿などを供えます。私はいつもそれを喜んで供えさせます。その女が書いてくれる手紙を私は実に多くの立派な学者先生の文学を『六合雑誌』などに拝見するよりも喜んで見まする。それが本当の文学で、それが私の心情に訴える文学。……文学とは何でもない、われわれの心情に訴えるものであります。文学というものはソウいうものであるならば……ソウいうものでなくてはならぬ……それならばわれわれはなろうと思えば文学者になることができます。われわれの文学者になれないのは筆が執れないからなれないのではない、われわれに漢文が書けないから文学者になれないのでもない。

書き下し

私は感謝していつでも六厘差し出します。それから七夕様がきますと、いつでも私のために七夕様に団子だの梨だの柿などを供えます。私はいつもそれを喜んで供えさせます。その女が書いてくれる手紙を、私は実に多くの立派な学者先生の文学を『六合雑誌』などに拝見するよりも、喜んで見まする。それが本当の文学で、それが私の心情に訴える文学。……文学とは何でもない、われわれの心情に訴えるものであります。文学というものはそういうものであるならば……そういうものでなくてはならぬ……それならば、われわれはなろうと思えば文学者になることができます。われわれの文学者になれないのは、筆が執れないからなれないのではない、われわれに漢文が書けないから文学者になれないのでもない。

現代語訳

私は感謝していつも六厘差し出します。それから七夕が来ると、いつも私のために七夕に団子や梨や柿などを供えます。私はいつも喜んで供えさせます。その人が書いてくれる手紙を、私は多くの立派な学者先生の文章を『六合雑誌』などで拝見するよりも、喜んで読みます。それが本当の文学で、それが私の心に訴える文学です。文学とは何ということはない、私たちの心に訴えるものです。文学がそういうものであるなら、そうでなくてはならないのですが、それなら私たちはなろうと思えば文学者になれます。私たちが文学者になれないのは、筆が執れないからではない、漢文が書けないからでもない。

解説

学者の論文より女中の手紙を上に置く、という価値の転倒がここで完成します。基準は一つで、心に訴えるかどうか。文学の定義をここまで下げたうえで、だから誰でもなれると結論する。思想を遺すという第三の答えが、学歴も文才も要らないところまで開かれました。ただし次の段から、では本当に誰でも書けるのかという疑いがまた出てきます。内村は開いてはまた閉じ、閉じてはまた開いて、最後の答えへ聞き手を運んでいきます。

この章句が説くこと

文学心情手紙価値転倒

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