後世への最大遺物 / 第二回・ジョン・バンヤンの無学
その失望はどこから起ったかというと、前にお話しした柔弱なる考えから起ったのでございます。すなわち『源氏物語』的の文学思想から起った考えであります。文学というものはソンナものではない。文学というものはわれわれの心のありのままをいうものです。ジョン・バンヤンという人はチットモ学問のない人でありました。もしあの人が読んだ本があるならば、タッタ二つでありました、すなわち『バイブル』とフォックスの書いた『ブック・オブ・マータース』(“Book of Martyrs”)というこの二つでした。今ならばこのような本を読む忍耐力のある人はない。私は札幌にてそれを読んだことがある。十ページくらい読むと後は読む勇気がなくなる本である。
書き下し
その失望はどこから起ったかというと、前にお話しした柔弱なる考えから起ったのでございます。すなわち『源氏物語』的の文学思想から起った考えであります。文学というものはそんなものではない。文学というものはわれわれの心のありのままをいうものです。ジョン・バンヤンという人はちっとも学問のない人でありました。もしあの人が読んだ本があるならば、たった二つでありました、すなわち『バイブル』とフォックスの書いた『殉教者の書』というこの二つでした。今ならばこのような本を読む忍耐力のある人はない。私は札幌にてそれを読んだことがある。十ページくらい読むと、後は読む勇気がなくなる本である。
現代語訳
その失望はどこから起こったかというと、前にお話しした柔弱な考えから起こったのです。すなわち『源氏物語』的な文学観から出た考えです。文学とはそんなものではない。文学とは、私たちの心をありのままに言うものです。ジョン・バンヤンという人は、少しも学問のない人でした。もしあの人が読んだ本があるとすれば、たった二冊でした。すなわち聖書と、フォックスの書いた『殉教者の書』の二冊です。今ならこんな本を読む忍耐力のある人はいません。私は札幌でそれを読んだことがあります。十ページも読むと、その先を読む勇気がなくなる本です。
解説
文学の定義がもう一度、今度は最も低い敷居で示されます。心のありのままを言うもの。学問も技巧も要らないという宣言です。そして例に選ばれるのが、生涯に二冊しか読まなかったと言われるジョン・バンヤン。読書量の乏しさが、書く資格を奪わないことの証拠として置かれています。自分もその本を読んで十ページで音を上げた、と正直に添えるところに、この講演の人なつこさがあります。
この章句が説くこと
文学無学ありのまま敷居率直
関連する章句
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『後世への最大遺物』第二回・心のままを書けばそれが文学これはまったく外からの雑りのない、もっとも純粋なる英語であるだろう」と申しました。そうして、かくも有名なる本は何であるかというと、無学者の書いた本であります。それで、もしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、すなわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵えた神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人はどれだけ喜んでこれを読むか知れませぬ。今の人が読むのみならず、後世の人も実に喜んで読みます。バンヤンは実に「真面目なる宗教家」であります。心の実験を真面目に表わしたものが英国第一等の文学であります。それだによって、われわれのなかに文学者になりたいと思う観念を持つ人がありまするならば、バンヤンのような心を持たなくてはなりません。彼のような心を持ったならば、実に文学者になれぬ人はないと思います。
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『後世への最大遺物』第二回・わが思うそのままを書くことにクエーカーの書いた本でありますから、文法上の誤謬がたくさんある。しかるにバンヤンは始めから終りまでこの本を読んだ。彼は申しました。「私はプラトンの本も、またアリストテレスの本も読んだことはない、ただイエス・キリストの恩恵にあずかった憐れなる罪人であるから、ただわが思うそのままを書くのである」といって、『天路歴程』という有名なる本を書いた。それでたぶんイギリス文学の批評家中で第一番という人……このあいだ死んだフランス人、テーヌという人であります……その人がバンヤンのこの著を評して何といったかというと「たぶん純粋という点から英語を論じたときには、ジョン・バンヤンの『天路歴程』に及ぶ文章はあるまい。
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『後世への最大遺物』第二回・深いところにはことごとく音楽があるわれわれの心に鬱勃たる思想が籠もっておって、われわれが心のままを、ジョン・バンヤンがやったように綴ることができるならば、それが第一等の立派な文学であります。カーライルのいったとおり「何でもよいから深いところへ入れ、深いところにはことごとく音楽がある」。実に、あなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な文学であります。私自身の経験によっても、私は文天祥がどう書いたか、白楽天がどう書いたかと思っていろいろ調べて、しかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が、私が見ても一番良い文章であって、外の人が評してもまた一番良い文章であるといいます。
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『後世への最大遺物』第二回・誰でも文学者になれるわけではないそう申しますと、またこういう問題が出てきます。われわれは金を溜めることができず、また事業をなすことができない。それからまた、それならばといって、あなたがたがみな文学者になったらば、たぶん活版屋では喜ぶかもしれませぬけれども、社会では喜ばない。文学者の世の中にふえるということは、ただ活版屋と紙製造所を喜ばすだけで、あまり社会に益をなさないかも知れない。ゆえに、もしわれわれが文学者となることができず、またなる考えもなし、バンヤンのような思想を持っておっても、バンヤンのように綴ることができないときには、別に後世への遺物はないかという問題が起る。それは私にもたびたび起った問題であります。なるほど文学者になることは、私が前に述べましたとおりやさしいこととは思いますけれども、しかし誰でも文学者になるということは、実は望むべからざることであります。
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『後世への最大遺物』第二回・私は文学者になれないという失望こういう事業ならば、あるいはわれわれも行ってみたいと思う。こう申しますると、諸君のなかにまたこういう人があります。「どうもしかしながら文学などは私らにはとてもできない、どうも私は今まで筆を執ったことがない。また私は学問が少い、とても私は文学者になることはできない」。それで『源氏物語』を見てとてもこういう流暢なる文は書けないと思い、マコーレーの文を見てとてもこれを学ぶことはできぬと考え、山陽の文を見てとてもこういうものは書けないと思い、どうしても私は文学者になることはできないといって失望する人がある。文学者は特別の天職を持った人であって、文学はとてもわれわれ平凡の人間にできることではないと思う人があります。
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『後世への最大遺物』第二回・金も事業も文学も最大ではないそれは実に最大遺物であります。金も実に一つの遺物でありますけれども、私はこれを最大遺物と名づけることはできない。事業も実に大遺物たるには相違ない、ほとんど最大遺物というてもようございますけれども、いまだこれを本当の最大遺物ということはできない。文学も先刻お話ししたとおり実に貴いものであって、わが思想を書いたものは実に後世への価値ある遺物と思いますけれども、私がこれをもって最大遺物ということはできない。最大遺物ということのできないわけは、一つは誰にも遺すことのできる遺物でないから、最大遺物ということはできないのではないかと思う。そればかりでなく、その結果はかならずしも害のないものではない。昨日もお話ししたとおり、金は用い方によってたいへん利益がありますけれども、用い方が悪いと、またたいへん害を来すものである。