後世への最大遺物 / 第二回・四十八年の生涯で三百行
トーマス・グレイという人は有名な学者で、彼の時代の人で彼くらいすべての学問に達していた人はほとんどなかったそうであります。イギリスの文学者中で博学、多才といったならばたぶんトーマス・グレイであったろうという批評であります。しかしながらトーマス・グレイは何を遺したか。彼の書いた本は一つに集めたらば、たぶんこんなくらい(手真似にて)の本でほとんど二百ページか、三百ページもありましょう。しかしそのうちこれぞというて大作はありませぬ。トーマス・グレイの後世への遺物は何にもない、ただ Elegy という三百行ばかりの詩でありました。グレイの四十八年の生涯というものは Elegy を書いて終ってしまったのです。
書き下し
トーマス・グレイという人は有名な学者で、彼の時代の人で彼くらいすべての学問に達していた人はほとんどなかったそうであります。イギリスの文学者中で博学、多才といったならば、たぶんトーマス・グレイであったろうという批評であります。しかしながらトーマス・グレイは何を遺したか。彼の書いた本は一つに集めたらば、たぶんこんなくらいの本で、ほとんど二百ページか、三百ページもありましょう。しかしそのうち、これぞというて大作はありませぬ。トーマス・グレイの後世への遺物は何にもない、ただ『哀歌』という三百行ばかりの詩でありました。グレイの四十八年の生涯というものは、『哀歌』を書いて終ってしまったのです。
現代語訳
トマス・グレイという人は有名な学者で、同時代の人で彼ほどあらゆる学問に通じていた人はほとんどいなかったそうです。イギリスの文学者の中で博学多才といえば、たぶんトマス・グレイだっただろうという評価です。しかしトマス・グレイは何を遺したか。彼が書いた本を一つに集めても、たぶんこれくらいの厚さで、二百ページか三百ページほどでしょう。しかもその中に、これぞという大作はありません。トマス・グレイの後世への遺物は何もない。ただ『哀歌』という三百行ほどの詩だけでした。グレイの四十八年の生涯は、『哀歌』を書いて終わってしまったのです。
解説
量ではなく一篇、という話です。当代随一の博学の人が、遺したのは三百行の詩だけだった。内村はこれを不足として語っているように見えて、次の段で逆転させます。ここで押さえておきたいのは、学識と遺物は比例しないという観察です。多くを知り多くを書いても、後世に届くのは一篇かもしれない。逆に言えば、一篇でも届けば生涯は無駄ではない。遺物を数で測らない見方が、ここから示されていきます。
この章句が説くこと
詩量遺物学識一篇
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『後世への最大遺物』第二回・グレイの Elegy 三百行それでその贈物、われわれがわれわれの思想を筆と紙とに遺して、これを将来に贈ることが実に文学者の事業でありまして、もし神がわれわれにこのことを許しますならば、われわれは感謝してその贈物を遺したいと思う。有名なるウォルフ将軍がケベックの市を取るときに、グレイの『哀歌』を歌いながらいった言葉があります。すなわち「このケベックを取るよりも、われはむしろこの『哀歌』を書かん」と。もちろん『哀歌』は、過激なるいわゆるルーテル的の文章ではない。しかしながらこれがイギリス人の心、ウォルフ将軍のような心をどれだけ慰めたか、実に今日までのイギリス人の勇気をどれだけ励ましたか知れない。
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