後世への最大遺物 / 第二回・インクスタンドを悪魔にぶつける
この社会、この国を改良しよう、この世界の敵なる悪魔を平らげようとの目的をもって戦争をするのであります。ルーテルが室のなかに入って何か書いておったときに、悪魔が出てきたゆえに、ルーテルはインクスタンドを取ってそれにぶッつけたという話がある。歴史家に聞くとこれは本当の話ではないといいます。しかしながらこれが文学です。われわれはほかのことで事業をすることができないから、インクスタンドを取って悪魔にぶッつけてやるのである。事業を今日なさんとするのではない。将来未来までにわれわれの戦争を続ける考えから事業を筆と紙とにのこして、そうしてこの世を終ろうというのが文学者の持っている Ambition であります。
書き下し
この社会、この国を改良しよう、この世界の敵なる悪魔を平らげようとの目的をもって戦争をするのであります。ルーテルが室のなかに入って何か書いておったときに、悪魔が出てきたゆえに、ルーテルはインクスタンドを取ってそれにぶつけたという話がある。歴史家に聞くと、これは本当の話ではないといいます。しかしながらこれが文学です。われわれはほかのことで事業をすることができないから、インクスタンドを取って悪魔にぶつけてやるのである。事業を今日なさんとするのではない。将来未来までにわれわれの戦争を続ける考えから、事業を筆と紙とにのこして、そうしてこの世を終ろうというのが文学者の持っている野心であります。
現代語訳
この社会、この国を良くしよう、この世界の敵である悪魔を平らげよう、という目的をもって戦うのです。ルターが部屋の中で何か書いていたとき、悪魔が出てきたので、ルターはインク壺を取ってそれにぶつけたという話があります。歴史家に聞くと、これは本当の話ではないそうです。しかしこれが文学です。私たちは他のことで事業をすることができないから、インク壺を取って悪魔にぶつけてやるのです。事業を今日なそうというのではない。将来、未来まで自分の戦いを続けるという考えから、事業を筆と紙に残して、この世を終わろうというのが、文学者の持つ野心です。
解説
ルターがヴァルトブルク城でインク壺を投げたという伝説を、内村は作り話だと断りながら使います。事実でないものを、文学とはこれだ、と言って掲げるのが面白いところです。手元にあるものを武器にして戦う。書くことしかできない人が、書くことを投擲に変える。そして目的は今日の勝利ではなく、未来まで戦いを続けることだと言う。自分の代では決着しない戦いに参加する方法として、著述が位置づけられています。
この章句が説くこと
著述戦い未来野心道具
関連する章句
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『後世への最大遺物』第二回・文学は戦争の道具である何もしないばかりでなく、われわれを女らしき意気地なしになした。あのような文学はわれわれのなかから根こそぎに絶やしたい。あのようなものが文学ならば、実にわれわれはカーライルとともに、文学というものには一度も手をつけたことがないということを世界に向って誇りたい。文学はそんなものではない。文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから、未来において戦争しようというのが文学であります。それゆえに文学者が机の前に立ちますときには、すなわちルーテルがウォルムスの会議に立ったとき、パウロがアグリッパ王の前に立ったとき、クロムウェルが剣を抜いてダンバーの戦場に臨んだときと同じことであります。
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『後世への最大遺物』第二回・折あらばわが思想を実行せよそれで文学というものの要は、まったくそこにあると思います。文学というものは、われわれの心に常に抱いているところの思想を後世に伝える道具に相違ない。それが文学の実用だと思います。それで思想の遺物というものの大なることは、われわれは誰もよく知っていることであります。思想のこの世の中に実行されたものが事業です。われわれがこの世の中で実行することができないからして、種子だけを播いて逝こう、「われは恨みを抱いて、慷慨を抱いて地下に下らんとすれども、汝らわれの後に来る人々よ、折あらばわが思想を実行せよ」と後世へ言い遺すのである。それでその遺物の大いなることは、実に著しいものであります。
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『後世への最大遺物』第二回・こういう文学なら誰でも遺せる文学者の秘訣はそこにあります。こういう文学ならば、われわれ誰でも遺すことができる。それゆえに有難いことでございます。もしわれわれが事業を遺すことができなければ、われわれに神様が言葉というものを下さいましたからして、われわれ人間に文学というものを下さいましたから、われわれは文学をもって、われわれの考えを後世に遺して逝くことができます。
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『後世への最大遺物』第二回・文学は惰け書生の玩具ではないそれゆえに思想を遺すということは大事業であります。もしわれわれが事業を遺すことができぬならば、思想を遺して、そうして将来にいたってわれわれの事業をなすことができると思う。そこで私はここでご注意を申しておかねばならぬことがある。われわれのなかに文学者という奴がある。誰でも筆を把って、そうして雑誌か何かに批評でも載すれば、それが文学者だと思う人がある。それで文学というものは、惰け書生の一つの玩具になっている。誰でも文学はできる。それで日本人の考えに、文学というものはまことに気楽なもののように思われている。山に引っ込んで文筆に従事するなどは、実に羨しいことのように考えられている。福地源一郎君が不忍の池のほとりに別荘を建てて、日蓮上人の脚本を書いている。
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『後世への最大遺物』第二回・著述と教育の二つあるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます。すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年を薫陶して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる。すなわちこれを短くいいますれば、著述をするということと、学生を教えるということであります。著述をすることと教育のことと、二つをここで論じたい。しかしだいぶ時がかかりますから、ただその第一、すなわち思想を遺すということについて、私の文学的観察をお話ししたいと思います。すなわちわれわれの思想を遺すには、今の青年にわれわれの志を注いでゆくも一つの方法でございますけれども、しかしながら思想そのものだけを遺してゆくには、文学によるほかない。
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『後世への最大遺物』第二回・誰でも文学者になれるわけではないそう申しますと、またこういう問題が出てきます。われわれは金を溜めることができず、また事業をなすことができない。それからまた、それならばといって、あなたがたがみな文学者になったらば、たぶん活版屋では喜ぶかもしれませぬけれども、社会では喜ばない。文学者の世の中にふえるということは、ただ活版屋と紙製造所を喜ばすだけで、あまり社会に益をなさないかも知れない。ゆえに、もしわれわれが文学者となることができず、またなる考えもなし、バンヤンのような思想を持っておっても、バンヤンのように綴ることができないときには、別に後世への遺物はないかという問題が起る。それは私にもたびたび起った問題であります。なるほど文学者になることは、私が前に述べましたとおりやさしいこととは思いますけれども、しかし誰でも文学者になるということは、実は望むべからざることであります。