後世への最大遺物 / 第二回・文学は惰け書生の玩具ではない
それゆえに思想を遺すということは大事業であります。もしわれわれが事業を遺すことができぬならば、思想を遺してそうして将来にいたってわれわれの事業をなすことができると思う。そこで私はここでご注意を申しておかねばならぬことがある。われわれのなかに文学者という奴がある。誰でも筆を把ってそうして雑誌か何かに批評でも載すれば、それが文学者だと思う人がある。それで文学というものは惰け書生の一つの玩具になっている。誰でも文学はできる。それで日本人の考えに文学というものはまことに気楽なもののように思われている。山に引っ込んで文筆に従事するなどは実に羨しいことのように考えられている。福地源一郎君が不忍の池のほとりに別荘を建てて日蓮上人の脚本を書いている。
書き下し
それゆえに思想を遺すということは大事業であります。もしわれわれが事業を遺すことができぬならば、思想を遺して、そうして将来にいたってわれわれの事業をなすことができると思う。そこで私はここでご注意を申しておかねばならぬことがある。われわれのなかに文学者という奴がある。誰でも筆を把って、そうして雑誌か何かに批評でも載すれば、それが文学者だと思う人がある。それで文学というものは、惰け書生の一つの玩具になっている。誰でも文学はできる。それで日本人の考えに、文学というものはまことに気楽なもののように思われている。山に引っ込んで文筆に従事するなどは、実に羨しいことのように考えられている。福地源一郎君が不忍の池のほとりに別荘を建てて、日蓮上人の脚本を書いている。
現代語訳
ですから思想を遺すことは大事業です。もし私たちが事業を遺せないなら、思想を遺して、将来になって自分の事業をなすことができると思います。そこで一つ注意しておかねばならないことがあります。私たちの中に文学者という連中がいます。誰でも筆を取って雑誌か何かに批評でも載せれば、それで文学者だと思う人がいる。それで文学というものが、怠け書生の玩具になっている。誰にでも文学はできる。それで日本人の考えでは、文学はまことに気楽なもののように思われている。山に引っ込んで文筆に従事するなど、実に羨ましいことのように考えられている。福地源一郎君が不忍池のほとりに別荘を建てて、日蓮上人の脚本を書いている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』公孟程子曰く、「甚だしいかな、先生の儒を毁るや」と。子墨子曰く、「儒に固より此の各の四政無くして、我れ之を言わば、則ち是れ毁るなり。今、儒に固より此の四政有りて、我れ之を言わば、則ち毁るに非ざるなり、聞くを告ぐるなり」と。程子、辭無くして出づ。子墨子曰く、「之に迷えるかな」と。反り、後に坐して、進みて復た曰く、「鄉者、先生の言に聞く可き者有り。若し先生の言のごとくんば、則ち是れ禹を譽めず、桀紂を毁らざるなり」と。子墨子曰く、「然らず。夫れ孰辭に應ずるに、議に稱いて之を為すは、敏なり。厚く攻むれば則ち厚く吾れし、薄く攻むれば則ち薄く吾れす。孰辭に應じて議に稱うは、是れ猶お轅を荷いて蛾を擊つがごときなり」と。
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孟子・盡心章句下貉稽(ハク・ケイ)曰く、「稽大いに口に理あらず。」孟子曰く、「傷むこと無かれ。士は茲の多口に憎まる。詩に云う、『憂心悄悄たり、羣小に慍らる』とは、孔子なり。『肆(ついに)に厥に慍りを殄(たつ)たず、亦た厥の問を隕とさず』とは、文王なり。」
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尚書・秦誓人を責むる斯れ難きこと無し、惟れ責めを受けて流るるが如くならしむる、是れ惟れ艱きかな。
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『韓非子』忠孝第五十一人の臣と為りて、常に先王の德厚を譽めて之を願うは、是れ其の君を誹謗する者なり。・・・其の君を非る者は、天下之を賢とす。此れ亂るる所以なり。
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