後世への最大遺物 / 第一回・清いがつまらない生涯
それで何となく厭世的の考えが起ってきた。すなわち人間が千載青史に列するを得んというのは、まことにこれは肉欲的、不信者的、heathen 的の考えである、クリスチャンなどは功名を欲することはなすべからざることである、われわれは後世に名を伝えるとかいうことは、根コソギ取ってしまわなければならぬ、というような考えが出てきました。それゆえに私の生涯は実に前の生涯より清い生涯になったかも知れませぬ。けれども前のよりはつまらない生涯になった。マーどうかなるだけ罪を犯さないように、なるだけ神に逆らって汚らわしいことをしないように、ただただ立派にこの生涯を終ってキリストによって天国に救われて、未来永遠の喜びを得んと欲する考えが起ってきました。
書き下し
それで何となく厭世的の考えが起ってきた。すなわち、人間が千載青史に列するを得んというのは、まことにこれは肉欲的、不信者的、ヒーゼン的の考えである、クリスチャンなどは功名を欲することはなすべからざることである、われわれは後世に名を伝えるとかいうことは、根こそぎ取ってしまわなければならぬ、というような考えが出てきました。それゆえに私の生涯は、実に前の生涯より清い生涯になったかも知れませぬ。けれども前のよりは、つまらない生涯になった。まあどうか、なるだけ罪を犯さないように、なるだけ神に逆らって汚らわしいことをしないように、ただただ立派にこの生涯を終って、キリストによって天国に救われて、未来永遠の喜びを得んと欲する考えが起ってきました。
現代語訳
それで何となく厭世的な考えが起こってきました。つまり、人が千年の歴史に名を連ねたいと願うのは、まったく肉欲的で、不信仰で、異教徒的な考えである。キリスト者たるもの功名を求めてはならない。後世に名を伝えるなどという思いは、根こそぎ取り除かねばならない。そういう考えが出てきたのです。そのおかげで私の生涯は、以前より清い生涯になったかもしれません。けれども、以前よりつまらない生涯になりました。なるべく罪を犯さないように、なるべく神に逆らって汚らわしいことをしないように、ただ立派にこの一生を終えて、キリストによって天国に救われ、永遠の喜びを得たい。そういう考えになってきたのです。
解説
この章句が説くこと
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『後世への最大遺物』第一回・千載青史に列するを得ん私のようにこんなに弱いもので、子供のときから身体が弱うございましたが、こういうような弱い身体であって、別に社会に立つ位置もなし、また私を社会に引っ張ってくれる電信線もございませぬけれども、どうぞ私も一人の歴史的の人間になって、そうして千載青史に列するを得るくらいの人間になりたいという心が、やはり私にも起ったのでございます。その欲望はけっして悪い欲望とは思っていませぬ。私がそのことを父に話し、友達に話したときに、彼らはたいへん喜んだ。「汝にそれほどの希望があったならば、汝の生涯はまことに頼もしい」といって喜んでくれました。ところが不意にキリスト教に接し、通常この国において説かれましたキリスト教の教えを受けたときには、青年のときに持ったところの、千載青史に列するを得んというこの欲望が、大分なくなってきました。
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『後世への最大遺物』第一回・この生涯は予備校であるしかしながら、ある意味からいいますれば、千載青史に列するを得んという考えは、私はそんなに悪い考えではない、ないばかりでなく、それは本当の意味にとってみまするならば、キリスト教信者が持ってもよい考えでございまして、それはキリスト信者が持つべき考えではないかと思います。なお、われわれの生涯の解釈から申しますると、この生涯は、われわれが未来に往く階段である。ちょうど大学校にはいる前の予備校である。もしわれわれの生涯が、わずかこの五十年で消えてしまうものならば、実につまらぬものである。私は未来永遠に私を準備するためにこの世の中に来て、私の流すところの涙も、私の心を喜ばしむるところの喜びも、喜怒哀楽のこの変化というものは、私の霊魂をだんだんと作り上げて、ついに私は死なない人間となってこの世を去ってから、もっと清い生涯をいつまでも送らんとするは、私の持っている確信でございます。しかしながら、そのことは純粋なる宗教問題でございまして、それは私の今晩あなたがたにお話をいたしたいことではございません。
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『後世への最大遺物』第一回・旗を挙げようという念が消えたそこで、そのときの心持ちは、なるほどそのなかに一種の喜びがなかったではございませぬけれども、以前の心持ちとは正反対の心持ちでありました。そうして、この世の中に事業をしよう、この世の中に一つ旗を挙げよう、この世の中に立って男らしい生涯を送ろう、という念がなくなってしまいました。ほとんどなくなってしまいましたから、私はいわゆる坊主臭い因循的の考えになってきました。それでまた、私ばかりでなく、私を教えてくれる人がそうでありました。たびたび……ここには宣教師はおりませぬから、少しは宣教師の悪口をいっても許してくださるかと思いまするが……宣教師のところに往って私の希望を話しますると、「あなたはそんな希望を持ってはいけませぬ、そのようなことはそれは欲心でございます、それはあなたのまだキリスト教に感化されないところの心から起ってくるのです」というようなことを聞かされないではなかった。
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『後世への最大遺物』第二回・誰にも遺すことのできる最大遺物ここにいたって、こういう問題が出てくる。文学者にもなれず、学校の先生にもなれなかったならば、それならば私は後世に何をも遺すことはできないかという問題が出てくる。何かほかに事業はないか、私もたびたびそれがために失望に陥ることがある。しからば私には何も遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。そうすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。陸放翁のいったごとく「我死して骨すなわち朽ち、青史にまた名無し」と嘆じ、この悲嘆の声を発してわれわれが生涯を終るのではないかと思うて、失望の極に陥ることがある。しかれども、私はそれよりもっと大きい、今度は前の三つと違いまして、誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。
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『後世への最大遺物』改版に附する序・天地無始終、人生有生死そして彼らの内にある者は、早くすでに立派にキリスト教を「卒業」して、今は背教者をもって自ら任ずる者もあります。またはこの書によって信者になりて、キリスト教的文士となりて、その攻撃の鉾を著者なる私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。そして私は幸いにして今日まで生きながらえて、この書に書いてあることに多くたがわずして私の生涯を送ってきたことを神に感謝します。この小著そのものが私の「後世への最大遺物」の一つとなったことを感謝します。「天地に始めと終わりは無く、人生には生と死がある」であります。しかし生死ある人生に、死の無い生命を得る道が供えてあります。天地は失せても、失せざるものがあります。そのものをいくぶんなりと握るを得て、生涯は真の成功であり、また大なる満足であります。
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『後世への最大遺物』第二回・百年後の人が読むとしたらもちろんこのことはたいへんよいことであります。それで、もしわれわれが今より百年後にこの世に生まれてきたと仮定して、明治二十七年の人の歴史を読むとすれば、どうでしょう、これを読んできてわれわれにどういう感じが起りましょうか。なるほどここにも学校が建った、ここにも教会が建った、ここにも青年会館が建った、どうして建ったろうといってだんだん読んでみますと、この人はアメリカへ行って金をもらってきて建てた、あるいはこの人はこういう運動をして建てたということがある。そこでわれわれがこれを読みますときに「ああ、とても私にはそんなことはできない、今ではアメリカへ行っても金はもらえまい、また私にはそのように人と共同する力はない。