金剛経 / 『金剛経』五つの眼で、心を見る
「須菩提!於意云何?如來有肉眼不?」 「如是、世尊!如來有肉眼。」 「須菩提!於意云何?如來有天眼不?」 「如是、世尊!如來有天眼。」 「須菩提!於意云何?如來有慧眼不?」 「如是、世尊!如來有慧眼。」 「須菩提!於意云何?如來有法眼不?」 「如是、世尊!如來有法眼。」 「須菩提!於意云何?如來有佛眼不?」 「如是、世尊!如來有佛眼。」 「須菩提!於意云何?如恆河中所有沙、佛說是沙不?」 「如是、世尊!如來說是沙。」 「須菩提!於意云何?如一恆河中所有沙、有如是沙等恆河、是諸恆河所有沙數、佛世界如是、寧為多不?」 「甚多、世尊。」 佛告須菩提:「爾所國土中、所有眾生、若干種心、如來悉知。何以故?如來說:諸心皆為非心、是名為心。所以者何?須菩提!過去心不可得、現在心不可得、未來心不可得。」
新字:「須菩提!於意云何?如来有肉眼不?」 「如是、世尊!如来有肉眼。」 「須菩提!於意云何?如来有天眼不?」 「如是、世尊!如来有天眼。」 「須菩提!於意云何?如来有慧眼不?」 「如是、世尊!如来有慧眼。」 「須菩提!於意云何?如来有法眼不?」 「如是、世尊!如来有法眼。」 「須菩提!於意云何?如来有仏眼不?」 「如是、世尊!如来有仏眼。」 「須菩提!於意云何?如恒河中所有沙、仏説是沙不?」 「如是、世尊!如来説是沙。」 「須菩提!於意云何?如一恒河中所有沙、有如是沙等恒河、是諸恒河所有沙数、仏世界如是、寧為多不?」 「甚多、世尊。」 仏告須菩提:「爾所国土中、所有衆生、若干種心、如来悉知。何以故?如来説:諸心皆為非心、是名為心。所以者何?須菩提!過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。」
書き下し
「須菩提よ、意に於いて云何。如来に肉眼有りや不や。」 「是の如し、世尊よ。如来に肉眼有り。」 「須菩提よ、意に於いて云何。如来に天眼有りや不や。」 「是の如し、世尊よ。如来に天眼有り。」 「須菩提よ、意に於いて云何。如来に慧眼有りや不や。」 「是の如し、世尊よ。如来に慧眼有り。」 「須菩提よ、意に於いて云何。如来に法眼有りや不や。」 「是の如し、世尊よ。如来に法眼有り。」 「須菩提よ、意に於いて云何。如来に仏眼有りや不や。」 「是の如し、世尊よ。如来に仏眼有り。」 「須菩提よ、意に於いて云何。恒河の中に所有る沙を、仏は是の沙を説くや不や。」 「是の如し、世尊よ。如来は是の沙を説きたもう。」 「須菩提よ、意に於いて云何。一恒河の中に所有る沙の如き、是の如き沙に等しき恒河有り、是の諸の恒河の所有る沙の数の仏世界、是の如きは、寧ろ多しと為すや不や。」 「甚だ多し、世尊よ。」 仏、須菩提に告げたもう、「爾所の国土の中の所有る衆生の、若干種の心を、如来は悉く知る。何を以ての故に。如来は説く、諸心は皆な非心と為す、是れを名づけて心と為す、と。所以は何ん。須菩提よ、過去心は不可得、現在心は不可得、未来心は不可得なればなり。」
現代語訳
「須菩提よ、どう思うか。如来には肉眼があるだろうか。」 「そのとおりです、世尊よ。如来には肉眼があります。」 「須菩提よ、どう思うか。如来には天眼があるだろうか。」 「そのとおりです、世尊よ。如来には天眼があります。」 「須菩提よ、どう思うか。如来には慧眼があるだろうか。」 「そのとおりです、世尊よ。如来には慧眼があります。」 「須菩提よ、どう思うか。如来には法眼があるだろうか。」 「そのとおりです、世尊よ。如来には法眼があります。」 「須菩提よ、どう思うか。如来には仏眼があるだろうか。」 「そのとおりです、世尊よ。如来には仏眼があります。」 「須菩提よ、どう思うか。ガンジス川にある砂を、仏はこれを砂と説くだろうか。」 「そのとおりです、世尊よ。如来はこれを砂と説かれます。」 「須菩提よ、どう思うか。一つのガンジス川にある砂の数ほどの、そのような砂に等しい数のガンジス川があり、それらすべてのガンジス川の砂の数ほどの仏の世界があるとしたら、それは多いだろうか。」 「非常に多いです、世尊よ。」 仏は須菩提に告げられました。「それほど多くの国土にいる生き物の、さまざまな心を、如来はすべて知っている。なぜなら、如来は、あらゆる心はそのままの心ではない、それを心と名づけているのだ、と説くからである。それはなぜか。須菩提よ、過去の心は捉えることができず、現在の心は捉えることができず、未来の心は捉えることができないからである。」
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
夢中問答集・『夢中問答集』仏眼と五眼の違い問佛眼にては凡夫と同じく、緣生の諸法を見ることあるまじきやらん。 答敎の中に五眼を明せり、其の義一說ならずといへども、しばらく一義をのぶべし、一つには肉眼よのつねの凡夫の所見なり、六眼淨を得たる人は肉眼のまゝにて三千世界を見ることあり。二つには天眼天人の所見なり、山川墻壁をへだてたる物をも見るなり、これも凡夫の所見なり、聖者の天眼は三千世界をも見るべし。三には慧眼諸法皆空の智慧なり、これは偏に菩薩の所見なり、二乘も少分此の智を得たりとゆるす事あり、四つには法眼諸法如幻の相を見る智慧なり、これも菩薩の所見なり、此の四眼は世間出世ことなりといへども皆な是れ緣生の法の上について見かへたる分劑なり、五つには佛眼卽是佛の內證の智なり、凡夫乃至菩薩もしることあたはず。涅槃經に云く、聲聞の人は天眼ありといへ共これを肉眼とす、大乘を學する者は肉眼なりといへどもこれを名けて佛眼とすと云云。この文のことは佛眼の如來のみ具し玉へり、凡夫にはかけたりと心得べきにあらず。先德の云く、四眼二智は萬象森然たり、佛眼種智は眞空冥寂なりと云云。しかれ共佛は五眼ともに具足し玉へる、故に凡夫に同じて世間の相をも見玉ひ、菩薩に同じて諸法の空理をも照し、緣生の如幻をも解し玉へり。凡夫に同ずといへ共生滅去來の相に墮ちず、菩薩に同ずれども空理幻相にも居せず。然らば卽ち五眼の差別をわかつ事は、凡情に約してしばらく談ずることなり。佛知見に約すれば迷悟眞俗のへだてもなく、性相事理のわけめもなし。たとへば凡夫の前には金銀瓦石水火草木其の品同じからず、佛は金を石となし火を水ともなし玉ふ、故に火に入れどもあつきことなく水にいれどもつめたきことなし、金銀なればとて瓦石にまされることもなく、瓦石なればとて金銀よりもいやしきこともなきがごとし、いまだ此の自在を得ざる人の水火もへだてなし、金石も同じことゝ申すはあやまりなり、佛知見を悟らざる人の迷悟性相のへだてなしといふことも亦かくのごとし。
-
金剛経・『金剛経』見解にも、とらわれない「須菩提よ、若し人言わく、仏は我見、人見、衆生見、寿者見を説く、と。須菩提よ、意に於いて云何。是の人は我が所説の義を解するや不や。」 「不なり、世尊よ。是の人は如来の所説の義を解せず。何を以ての故に。世尊の説きたもう我見、人見、衆生見、寿者見は、即ち我見、人見、衆生見、寿者見に非ず、是れを我見、人見、衆生見、寿者見と名づく。」 「須菩提よ、阿耨多羅三藐三菩提の心を発す者は、一切の法に於いて、応に是の如く知り、是の如く見、是の如く信解して、法相を生ぜざるべし。須菩提よ、言う所の法相とは、如来は説きて即ち法相に非ずとす、是れを法相と名づく。」
-
金剛経・『金剛経』相を離れ、怒りを離れる爾の時、須菩提、是の経を説くを聞き、深く義趣を解して、涕涙悲泣して、仏に白して言さく、「希有なり、世尊よ。仏は是の如き甚深の経典を説きたもう。我は昔より来、得る所の慧眼をもって、未だ曾て是の如きの経を聞くことを得ず。世尊よ、若し復た人有りて、是の経を聞くことを得て、信心清浄ならば、則ち実相を生ず。当に知るべし、是の人は第一希有の功徳を成就せん。世尊よ、是の実相とは、則ち是れ非相なり。是の故に如来は実相と名づくと説きたもう。世尊よ、我今是の如き経典を聞くことを得て、信解し受持すること、難しと為すに足らず。若し当来の世、後の五百歳に、其れ衆生有りて、是の経を聞くことを得て、信解し受持せば、是の人は則ち第一希有と為す。何を以ての故に。此の人には我相無く、人相無く、衆生相無く、寿者相無し。所以は何ん。我相は即ち是れ非相なり。人相、衆生相、寿者相も即ち是れ非相なり。何を以ての故に。一切の諸相を離るるを、則ち諸仏と名づく。」 仏、須菩提に告げたもう、「是の如し、是の如し。若し復た人有りて、是の経を聞くことを得て、驚かず、怖れず、畏れざれば、当に知るべし、是の人は甚だ為れ希有なり。何を以ての故に。須菩提よ、如来の説きたもう第一波羅蜜は、即ち第一波羅蜜に非ず、是れを第一波羅蜜と名づく。須菩提よ、忍辱波羅蜜は、如来は忍辱波羅蜜に非ずと説く。是れを忍辱波羅蜜と名づく。何を以ての故に。須菩提よ、我が昔、歌利王のために身体を割截せられし如き、我は爾の時において、我相無く、人相無く、衆生相無く、寿者相無かりき。何を以ての故に。我は往昔、節節に支解せられし時に、若し我相、人相、衆生相、寿者相有らましかば、応に瞋恨を生ずべかりき。須菩提よ、又た過去の五百世に、忍辱仙人と作りしを念うに、爾所の世において、我相無く、人相無く、衆生相無く、寿者相無かりき。是の故に、須菩提よ、菩薩は応に一切の相を離れて、阿耨多羅三藐三菩提の心を発すべし。応に色に住して心を生ずべからず、応に声、香、味、触、法に住して心を生ずべからず、応に住する所無き心を生ずべし。若し心に住する有らば、則ち為れ住に非ず。」 「是の故に仏は説く、菩薩は心に応に色に住して布施すべからず、と。須菩提よ、菩薩は一切衆生を利益せんが為の故に、応に是の如く布施すべし。如来は説く、一切の諸相は、即ち是れ非相なり、と。又た説く、一切の衆生は、即ち衆生に非ず、と。須菩提よ、如来は是れ真語者、実語者、如語者、不誑語者、不異語者なり。」 「須菩提よ、如来の得たる所の法は、此の法には実も無く虚も無し。須菩提よ、若し菩薩、心に法に住して布施を行ぜば、人の闇に入りて、則ち見る所無きが如し。若し菩薩、心に法に住せずして布施を行ぜば、人の目有りて、日光明らかに照らし、種種の色を見るが如し。」 「須菩提よ、当来の世に、若し善男子、善女人有りて、能く此の経に於いて受持読誦せば、則ち為れ如来、仏の智慧を以て、悉く是の人を知り、悉く是の人を見たもう。皆な無量無辺の功徳を成就することを得ん。」
-
金剛経・『金剛経』救ったと思わない菩薩爾の時、須菩提、仏に白して言さく、「世尊よ、善男子、善女人、阿耨多羅三藐三菩提の心を発さば、云何が応に住すべき。云何が其の心を降伏すべき。」 仏、須菩提に告げたもう、「善男子、善女人、阿耨多羅三藐三菩提の心を発す者は、当に是の如き心を生ずべし。我れ応に一切衆生を滅度すべし。一切衆生を滅度し已りて、而も一衆生として実に滅度せらるる者有ること無し。何を以ての故に。須菩提よ、若し菩薩に我相、人相、衆生相、寿者相有らば、則ち菩薩に非ず。所以は何ん。須菩提よ、実に法として阿耨多羅三藐三菩提の心を発す者有ること無ければなり。」 「須菩提よ、意に於いて云何。如来は燃灯仏の所に於いて、法の阿耨多羅三藐三菩提を得ること有りや不や。」 「不なり、世尊よ。我が仏の説きたもう所の義を解するが如くんば、仏は燃灯仏の所に於いて、法の阿耨多羅三藐三菩提を得ること有ること無し。」 仏の言わく、「是の如し、是の如し。須菩提よ、実に法として如来が阿耨多羅三藐三菩提を得ること有ること無し。須菩提よ、若し法有りて如来が阿耨多羅三藐三菩提を得ば、燃灯仏は則ち我に授記せじ。汝は来世に於いて、当に作仏することを得て、釈迦牟尼と号すべし、と。実に法として阿耨多羅三藐三菩提を得ること有ること無きを以て、是の故に燃灯仏は我に授記して、是の言を作したまえり。汝は来世に於いて、当に作仏することを得て、釈迦牟尼と号すべし、と。何を以ての故に。如来とは、即ち諸法如の義なり。」 「若し人有りて言わく、如来は阿耨多羅三藐三菩提を得たり、と。須菩提よ、実に法として仏が阿耨多羅三藐三菩提を得ること有ること無し。須菩提よ、如来の得たる所の阿耨多羅三藐三菩提は、是の中に実も無く虚も無し。是の故に如来は説く、一切の法は皆な是れ仏法なり、と。須菩提よ、言う所の一切の法とは、即ち一切の法に非ず、是の故に一切の法と名づく。」 「須菩提よ、譬えば人身の長大なるが如し。」 須菩提の言さく、「世尊よ、如来は説きたもう、人身の長大なるは、則ち為れ大身に非ず、是れを大身と名づく、と。」 「須菩提よ、菩薩も亦た是の如し。若し是の言を作さく、我れ当に無量の衆生を滅度すべし、と。則ち菩薩と名づけず。何を以ての故に。須菩提よ、実に法として名づけて菩薩と為すもの有ること無ければなり。是の故に仏は説く、一切の法は、我無く、人無く、衆生無く、寿者無し、と。」 「須菩提よ、若し菩薩、是の言を作さく、我れ当に仏土を荘厳すべし、と。是れは菩薩と名づけず。何を以ての故に。如来は説く、仏土を荘厳すとは、即ち荘厳に非ず、是れを荘厳と名づく、と。」 「須菩提よ、若し菩薩、無我の法に通達せば、如来は説きて真に是れ菩薩なりと名づく。」
-
金剛経・『金剛経』完全な姿でも如来は見えない「須菩提よ、意に於いて云何。仏は具足色身を以て見るべきや不や。」 「不なり、世尊よ。如来は応に具足色身を以て見るべからず。何を以ての故に。如来の説きたもう具足色身は、即ち具足色身に非ず、是れを具足色身と名づく。」 「須菩提よ、意に於いて云何。如来は具足諸相を以て見るべきや不や。」 「不なり、世尊よ。如来は応に具足諸相を以て見るべからず。何を以ての故に。如来の説きたもう諸相具足は、即ち具足に非ず。是れを諸相具足と名づく。」
-
金剛経・『金剛経』住する所なくして心を生ず仏、須菩提に告げたもう、「意に於いて云何。如来は昔、燃灯仏の所に在りて、法に於いて得る所有りや不や。」 「不なり、世尊よ。如来は燃灯仏の所に在りて、法に於いて実に得る所無し。」 「須菩提よ、意に於いて云何。菩薩は仏土を荘厳するや不や。」 「不なり、世尊よ。何を以ての故に。仏土を荘厳すとは、即ち荘厳に非ず、是れを荘厳と名づく。」 「是の故に、須菩提よ、諸の菩薩摩訶薩は、応に是の如く清浄の心を生ずべし。応に色に住して心を生ずべからず、応に声、香、味、触、法に住して心を生ずべからず、応に住する所無くして、其の心を生ずべし。」 「須菩提よ、譬えば人有りて、身は須弥山王の如くならんに、意に於いて云何。是の身は大なりと為すや不や。」 須菩提の言さく、「甚だ大なり、世尊よ。何を以ての故に。仏は非身を説きて、是れを大身と名づく。」