古語拾遺 / 後磐余稚桜朝
至於後磐餘稚櫻朝。
新字:至於後磐余稚桜朝。
書き下し
後の磐余稚桜朝に至りて。
現代語訳
履中天皇(後の磐余稚桜朝)の御代になって、
解説
履中天皇の代に入ることを告げる一句だけの章句である。神功皇后の宮も磐余稚桜宮と呼ばれたため、その後の同名の宮として「後の」を冠している。直前には応神天皇の代に王仁や弓月、阿知使主が多くの民を率いて渡来したことが記され、この一句の直後に、三韓からの貢ぎ物が代々絶えず、斎蔵の傍らに内蔵を建てて官物を分け、阿知使主と王仁に出納を記させた、と続く。日本書紀の履中天皇の条にも、この代に初めて蔵職を建て、蔵部を定めたとある。一句は短いが、会計の分離が始まる時代の目印として置かれている。どの時点で何が変わったかを代ごとに区切って記録する、この書の年代記としての骨組みが、こうした短い句に表れている。
関連する章句
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『古語拾遺』内蔵を建て出納を記す三韓の貢献、奕世絶ゆること無し。斎蔵の傍らに更に内蔵を建て、官物を分収す。仍りて阿知使主と百済の博士王仁とをして、其の出納を記さしむ。始めて更に蔵部を定む。
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『古語拾遺』内附の民軽島豊明朝に至りて、百済王、博士王仁を貢ず。是れ河内文首の始祖なり。秦公の祖弓月、百廿県の民を率いて帰化す。漢直の祖阿知使主、十七県の民を率いて来朝す。秦・漢・百済内附の民、各々万を以て計う。褒賞するに足る。皆な其の祠有るも、未だ幣の例に預からざるなり。
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『古語拾遺』三蔵を検校す因りて姓を宇豆麻佐と賜う。此れより後、諸国の貢調、年々盈溢す。更に大蔵を立て、蘇我麻智宿禰をして三蔵を検校せしむ。秦氏、其の物を出納し、東西の文氏、其の簿を勘録す。是を以て漢氏、姓を賜い、内蔵・大蔵と為す。秦・漢二氏をして内蔵・大蔵の主鎰と為さしむ。蔵部の縁なり。
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『古語拾遺』斎蔵此の時に当たりて、帝と神と、其の際未だ遠からず。殿を同じくし牀を共にすること、此れを以て常と為す。故に神物・官物も亦未だ分別せず。宮内に蔵を立て、号して斎蔵と曰う。斎部氏をして永く其の職に任ぜしむ。
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『古語拾遺』笠縫邑と五十鈴川仍りて倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神籬を立て、天照大神及び草薙剣を遷し奉り、皇女豊鍬入姫命をして斎い奉らしむ。其の遷し祭る夕、宮人皆参りて、終夜宴楽す。歌いて曰く、「美夜比登能(みやひとの)、於保与須我良爾(おほよすがらに)、伊佐登保志(いさとほし)、由伎能与呂志茂(ゆきのよろしも)、於保与須我良爾(おほよすがらに)」と。又六年、八十万の群神を祭り、仍りて天社・国社及び神地・神戸を定む。始めて男の弭の調、女の手末の調を貢らしむ。今、神祇の祭に熊の皮・鹿の皮・角・布等を用うるは、此の縁なり。巻向玉城朝に洎びて、皇女倭姫命をして天照大神を斎い奉らしむ。仍りて神の教えに随いて、其の祠を伊勢国の五十鈴の川上に立て、因りて斎宮を興して倭姫命をして居らしむ。始め天上に在りて、預め幽契を結ぶ。衢神先に降る、深く以有るかな。此の御世、始めて弓矢・刀を以て神祇を祭り、更に神地・神戸を定む。又新羅の王子海檜槍来帰す。今但馬国出石郡に在りて大社と為るなり。纏向日代朝に至りて、
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『古語拾遺』中臣専権天平年中に至りて、神帳を勘造す。中臣専権にして、任意に取捨す。由有る者は小祀も皆な列し、縁無き者は大社も猶お廃す。敷奏施行、当時独歩なり。諸社の封税、総て一門に入る。
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